2011年3月11日の東日本大震災から今月で丸6年。震災の爪痕は人々の心に深く刻まれており、都筑区内でも被災地復興支援の活動やイベントを根強く継続する動きがある。当時、福島県双葉郡浪江町で震災に見舞われ、昨年、区内へ移り住んだ横山徳三郎さん(67)に、今だからこそ言葉にできる思いを取材した。
豊かな自然が広がる浪江町津島。大阪出身で、東京や横浜の会社に30年間勤務した横山さんはこの自然に惹かれ、04年に家族とともに移住。山間部で宿泊施設を経営し、第二の人生をスタートさせた。震度6強の揺れと15mを超える津波が町を襲ったのは軌道に乗った8年目の出来事だった。
地震と津波の影響で651戸が全壊。死者、行方不明者は182人にのぼる。横山さんの自宅や施設も水道やガスの供給が停止し、自宅と施設は家具が散乱した。15日に自主避難を決意。「1、2週間は戻れないとは思っていた。6年経っても戻れないなんて」
妻の故郷・茨城県に一時身を寄せた後、妻と中2の娘は茨城に残り、自身は同年5月、高1の息子と福島県二本松市へ。息子が通学する間、人手不足に困窮する浪江町役場や社協の職員を務めた。「止まるとおかしくなる。何かしなくてはという思いで一杯だった」
一連の出来事を振り切るように奔走していたある日、飲食店の近くの席から「浪江のやつ、賠償金をもらいやがって」と言う心ない言葉が聞こえた。震災をきっかけとした差別や偏見は被災者同士の間にも存在する。悲しい現実に直面して以来、「浪江町から来たと言えなくなった」と横山さんは口を閉ざしてきた。
願うのは「復旧」ではなく「復興」
会社員時代に緑区・鴨居に住んでいた縁で、昨年6月に池辺町へ。そこで区内で被災地復興支援を行う「NPO法人結ぶ」を知り、活動を共にする中で自分の経験を伝える必要性を感じ始めた。「こちらは事実と異なる認識があまりに多い。自分なら事例を持って話せる」。結ぶ主催で今月4日、5日に行われた復興支援イベントでは講演の他、浪江焼きそばを販売。「一つの情報が全てではない。知る機会は沢山ある。拾い集めて判断してほしい」と願う。
浪江町の一部は今月末で避難指示が解除されるが、福島原発から約30Km離れた津島は未だ空間放射線量が高く、帰還困難区域のまま。「あと1、2年したら解除になるだろう。しかし、町の『復旧』は進んでも、『復興』については100%疑問だらけです」。区民と接し、自らの思いを伝えながら、これからの人生をどう生きるか模索している。
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