戦前、義務教育は小学校六年、高等科二年、青年学校四年間でした。小学校から中学に進学できるのはクラスで数名、大半は兵隊検査まで青年学校(軍事訓練)が義務でした。
終戦後、小学校六年、中学三年、高等学校三年になりましたが、中学の校舎がない。臨時に一年・二年は小学校の空いた高等科の教室を使い、三年生の教室が足りない。戦後、混乱期で校舎の建築は大変でした。農協と地元の代表が集まり、教育後援会と相談の結果、牛久保陸軍照空部隊の兵舎を国から払い下げを受け、地元の大工、鳶職を動員。建築業者を中心に住民の勤労奉仕で丁寧に解体。物資がない時代なので、釘一本、板一枚大事に解体、コンクリートの瓦を一枚一枚手渡しで牛車に積み、今の中川中学用地に移築、勿論材料が足りないので、高田の陸軍高射砲部隊の兵舎も一部頂きました。当時、近隣部落も中学建築で奔走、たしか東山田照空部隊の兵舎はとなり部落に移設されたと聞きました。今の中川中学校敷地は戦前、畑と山で青年学校を建てるために、村民が勤労奉仕で土をモッコで担ぎ、山を削り、道を作った。戦況厳しく、校舎は中止、敷地は青年学校訓練場、一部は高等科の農業実習地に使われて孟宗竹の実習畑もありました。
日本に鉱物資源はありませんが、日本の資源は子どもの教育です。教育は生きる豊かな教えが基本で中学は社会へのスタートラインです。世界を見て、幸、不幸は資源よりも道徳の教えの普及が大事と感じます。昔、男は15歳で元服、近ごろは特攻少年兵に志願、人生長短は論外、出会いが人生豊か、失望の敗戦の中、兵舎を解体奉仕した復員兵の思いを忘れまい。恨み妬みを越した汗が教育です。
※男全さんは昭和3年北山田生まれ、ニュータウンの歴史に詳しい元町会長。
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