大正末期〜昭和の北山田から 第58回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
区画整理審議会委員選挙【3】
市会、県会議員までお祝いに駆けつけ、深夜まで全員で美酒に酔ったが、費用は全額支持者の負担であり、候補者には迷惑はかけぬ、これからが大変なのだからと、恐縮してしまった。
友人という言葉を選挙を通じて噛みしめ、一人のひ弱さを感じた。
人は、他人や友人に支持され肉付けされて出来上がることを強く感じ、援護してくれる方々に感謝せねばと思う。
二回目の選挙の時、当選祝いに日吉の妹が、地域の方に兄が世話になっているというので、深夜まで手伝いに来てくれたが、翌日、夫、四十八歳が、島でスキューバダイビングを親子で楽しんでいた時、事故で水死してしまったことは忘れられない。
生活対策
間もなく、住民協議会が組織され、生活対策部が創設されたが、換地後の土地利用に対する生活対策に重点がおかれた。
北山田は全町ニュータウン地区に入ったので、他町と異なった立場にあった。
他町は調整地区があり、直接生活が脅かされる心配がないので、将来の土地利用を考えればよいが、我々は明日の生活を考えねばならない。
昭和四十九年、同志七名で、買収された公団の土地の草刈りを請け負ったのが始まりで、山田富士組の基礎が築かれた。
町内の農家に呼びかけ、同志十七名で、有限会社山田富士組を昭和五十三年頃設立し、事務所兼倉庫は私宅の牛小屋を改造して営業した。
=つづく
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