2011年3月11日。その日は、福島県いわき市に当時暮らしていた渡邉謙一さん(37)と佳奈子さん(35)にとっては、結納を夕方から行う予定だった。その前に、飲食店で2人で休憩していた時、今まで経験したことのない揺れに襲われた。「その場に立っていられなかった。しゃがみこむことしかできなかった」と佳奈子さん。携帯電話も通じず、状況も分からない。その後も大きな余震は続いたという。
謙一さんの祖父母の実家は海の近くだった。祖父は津波に巻き込まれ、4日間連絡が取れなかった。ニュースで津波のことを知り、「無事を祈る事しかできなかった」と謙一さん。奇跡的に祖父は建物の隙間に引っ掛かかり生きていた。家族みんなが安堵した。
「遠くへ逃げなくては」
だが、それもつかの間だった。襲い掛かったのは東電福島第一原発事故。横浜で教諭として4月から働くことが決まっていた謙一さん。佳奈子さんと2人で、横浜へ避難することを決断した。「本当に着替えなど最低限の物だけを持って、一般道で12時間くらいかけて横浜へ車を走らせた」と当時を回顧した。しばらくホテル暮らしが続いた。その後、あざみ野に住み始め、学校での勤務が始まった。最初の着任あいさつ。「福島県から来ました」。そう言うと、周りはざわついた。「福島県から来たことを隠すつもりは一切なかったです」。それは、故郷で経験したことをしっかりと伝えなくてはいけないという使命感からだ。
一方、佳奈子さんは、一時的に横浜に避難したが、その後、1年間はいわき市に戻り、働き暮らした。「震災直後にすぐ出ていくのは、なんだか故郷を捨てたような気がして。母と妹も心配でしたし」と振り返った。
それから10年が経つ。2人は口をそろえる。「ちゃんと経験を後世に伝えなくてはならない」
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