1945年8月15日、第二次世界大戦の終わりを告げた玉音放送。その晩、当時11歳だった梶浦敦さん(西ひかりが丘在住)は旧満州・安東市で感じたことのない恐怖を知る――。
満州に生まれ、母と伯父、祖母と4人で暮らしていた。父は終戦間際の5月に召集され、自身は学校で武器の使い方などを教えられる日々。しかし、8月15日を境に生活は一変した。家族は目を赤くし、夜になるとどこからともなく不安が襲う。「中国人から焼き討ちに合うんじゃないかと怖くて」。朝になると近所の神社は黒く焦げていた。翌日、学校へ行くと教諭から「明日から学校は閉鎖します」と言われ、子どもたちは小さくバンザイした。
しばらくすると、頭を丸め男装する女性たちが北部から逃れてきた。ドイツ帰りのソ連兵が、その足で満州へ侵攻。殺伐とした様子で民家から物を奪い、女性に乱暴していたという。すぐに安東にもソ連兵が侵攻。「日本兵がそこにいて、でもよく見たら帽子につばがない」。ソ連兵は長期の戦いで軍服がボロボロになり、関東軍から服を奪って自国の服に近づけるため帽子のつばを取ったという。
安東にはソ連兵用の慰安所も作られ、治安維持に努められた。だが、ソ連軍の次は中国から八路軍が押し寄せてくる。親日派の中国人に対する粛清が始まり、近所の交番署長の銃殺が決定。梶浦さんも興味本位で見物に行くと、拷問により自力では歩けなくなった署長は、車から引きずり下ろされ、頭を打たれた。「人がいなくなった頃に遺体をのぞき込んだら、穏やかな顔で。辛い拷問から逃れられたのでしょう」。帰ろうと後ろを向くと、3つ銃剣がこちらを向いていた。唖然として声も出なかったが、近くにいた中国人に助けられ、事無き終えた。
梶浦さんが帰国したのは終戦から1年2カ月後。道中でもさまざまな経験をしたが、その間の生活は決して辛いだけではなかったという。記録のために梶浦さんが手作りした冊子「ぶらぶら坊主の安東の想い出話」では、体験したことの他、家族との何気ない会話も記されている。
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