家は朽ちても、心はつながる 福島県から移住した国分さん
東日本大震災からもうすぐ1年。「私はいずれ、どこに行くのだろうか」。体はここにあるが、魂がさまよっている気がする。戸塚町に住む国分晶子さん(60)は複雑な思いを抱える。
警戒・計画的避難区域に指定され、住民が避難を強いられている故郷の福島県浪江町では今も、高い放射線量が測定される。同町が行った町民アンケートでは、放射線量低下が見込めないことなどから回答者の3分の1が町に「戻らない」とした。国分さんも「何十年も戻れないだろう」とみる。
両親は国の補助を受け、同県桑折(こおり)町に移り住んだ。一昨年から宮城県仙台市の女子大寮に住み込みで働いていた国分さんは、昨年10月に戸塚区へ引っ越した。今は、葉山町の社会福祉協議会に所属し、ホームヘルパーとして働いている。
5月、国分さんは横浜市内の大学に通う娘から、「実家に行きたい」と頼まれた。同区域のためそれはできず、福島県南相馬市から仙台市まで一緒に車で走った。津波により何もなくなってしまった景色に娘は、「ふるさとがなくなってしまった…」。大きなショックを受け体調を崩し、8月には入院するまでに。担当医から「本当は実家で安静にした方がいいのだが」と言われるも、その実家には戻れない。国分さんは娘に寄り添おうと、横浜市の住宅供給公社に相談、無償で借りることができた。
月に1度、職員を送り様子を見てくれる県、定期的に催しなどの案内を送ってれる市には感謝している。一方で、原発を取り入れた政治家と科学者には怒りを覚える。「原発を知らない地元は、(原発を)勧められれば受け入れてしまう。政治家からの謝罪もない」
58年住んでいた浪江町では、一人暮らしの高齢者に弁当を作ったり、行政の事業でボランティアを買って出たりと、地域の人のために活動するのが好きだった。人のために役立つのは、初めてだったヘルパーの仕事にも共通する。「ああ、自分のしてきたことがここにつながってたんだなって。家は朽ちても、ここはつながっていくんです」。目じりをぬぐいながら微笑み、胸に手をかざした。
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4月18日