戸塚区版 掲載号:2013年4月11日号
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戦中・戦後を生き抜いた戸塚区民が語る 不定期連載 語り継ぐ戦争の記憶【3】 ―幼子抱え、生き抜いた日々―

社会

戦争の記憶が今でも鮮明な石井さん
戦争の記憶が今でも鮮明な石井さん

 5月で93歳になる石井ミネさんが戸塚区に移り住んだのは、1941年4月。同年の12月、日本のハワイ真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が開戦した。「大本営発表、大本営発表―」。ラジオから流れてきた力強い声は今でも耳に残っている。「これは大変なことになった、と思った。開戦なんてうれしくも何ともなかった」

慣れという恐怖

 4人の子どもに恵まれ、戦時中に2人を出産。幼子を抱えながら戦争を体験した日々は、”必死”の一言に尽きる。

 10万人以上の死者を出した1945年3月10日の東京大空襲。「夜中に東京の方の空が真っ赤になった」と石井さん。当時の光景は今でも忘れられない。戸塚は米軍の偵察機が東京へ向かう通り道だったため、偵察機は幾度となく見ていた。最初は怖かったが、何度も見るたびに次第に慣れてきたという。

 自宅の庭に銃弾が落とされたこともある。長男を出産した2日後の同年の8月12日。自宅にいると飛行機が近づく金属音がした。「サササーっと音がして、庭を見に行ったら銃弾が落ちていた」。横須賀沖に停泊していた航空母艦から飛び立った飛行機が、上倉田南の周辺を狙ったのだ。「このときも怖くも何ともなかった。慣れは恐ろしい」と石井さんは繰り返す。

 そして3日後の8月15日、玉音放送で昭和天皇から敗戦が告げられた。

 玉音放送を聞いたとき、石井さんは「これでやっと食べられるようになる」と思ったという。しかし、現実は甘くなく、戦時中よりも戦後の方が食糧難は厳しかった。

食糧難に苦しむ

 戦時中は月に10日ほどあったという米の配給が戦後は月に2日ほどに減り、代わりに米軍から砂糖やトウモロコシの粉、小麦粉などが配られた。それを持ち、汲沢町や新橋町の農家へ野菜や米などと交換しに行ったという。

 「今晩は子どもたちに何を食べさせようかといつも考えて夢中で育ててきた。とにかく飢え死にしなければいい。ぜいたくなんて言っていられない」。たんぽぽや野草、時には牛馬の餌となるイモを食べたこともある。「育ち盛りの子どもたちはごはんが思う存分食べられなかったから、畑から野菜や果物を盗って食べたこともあったと聞いた」

願う平和の持続

 当時、戸塚駅の西口には「闇市」があり、そこで野菜や針などの雑貨を調達したという。そこには戦争孤児たちが靴磨きをする姿も多く見られたという。石井さんは彼らのことを思うと胸が痛くなる。

 そして同時に子どもを戦地へ送り出し、亡くした親の気持ちを考えると涙が溢れる。「当時はお国のためと言って国民皆がそうしていた。それが当たり前だったけれど、親にしてみれば何のために生んだのか…。戦争と、それを当然とする教育ほど恐ろしいものはない」。今の世の中に願うのは平和が続くこと、それだけだ。
 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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