あの朝、広島には真夏の太陽が照りつけていた。
小学1年生だった石原正さん(74)=下倉田町在住=は6時に起床し、金魚の餌となる糸ミミズを探しに近所のドブ川へ。家に戻ると、母、姉、空襲のひどい大阪から避難してきていた従姉の3人は、延焼の危険を避けるために線路沿いの家屋を取り壊す措置として、強制疎開の手続きに入れ違いで市役所へ出かけたところだった。
当日は夏休み中の登校日で、石原さんも同居する叔母に急かされつつ、8時少し前に三滝町(現・広島市西区)の自宅を出発。30m先にある集合場所の青年会館に着くと、はしゃぐ友人たちをよそに、窓際でぼんやりと外を眺めていた。
その時だった。青年会館の脇を走る線路か家屋が、何かに反射して光った。
* *
どれくらいの時間が過ぎたのか。意識を取り戻すと、倒壊した建物の下敷きになりながらも窓際にいたことが幸いし、外に出ていた腕を必死に振った。
やがて救出されると、外は相変わらずのカンカン照り。だが青年会館は全壊、自宅は炎に包まれ、景色は地獄絵のように一変していた。呆然としながらも人波に押されるように、流血で片目しか見えない状況で三滝川方面へ懸命に歩いた。
にわかに空が暗くなり、降り始めた黒い雨。雨粒に濡れると体中の傷が痛み、川面には油膜が広がり魚が浮いた。雨を避けようと逃げた土手で、「あっちにお前のお母さんがいる」と声をかけられて行ってみると、そこにいたのは母の知人だった。その朝、母たちは市役所へ向かう道すがら空襲警報が発令され、近くにあったその女性の家に避難していた。だが、警報が解除されると「今日は急ぐ」と行ってしまったというのだ。「もう少し私の家にいたら助かったのに」。原子爆弾が投下されたのは、それからまもなくのことだった。
夕方になり、母たちを探しに一人で出かけた。歩いてくる人々は一様に全身が焼けただれ、指の先端から皮膚がダラリと垂れさがっている。防火用水槽で赤ん坊を抱いたまま死んでいる人も見た。家屋の燃え盛る炎の中、頭や手足に傷を負いながらも6歳の少年はただただ母に会いたい一心で、裸足のまま歩き続けた。
爆心地から約1・5Kmの三篠橋にたどり着き川を見下ろすと、黒焦げの死体がたくさん浮かび、川岸にひしめく人たちは「水、水」とうめき川に入っていく。その光景を目にして我にかえり、恐怖を覚えて来た道を折り返した。3人の消息はいまだ不明のままだ。
その後、無事だった祖母と叔母で焼け残った近所の家に仮住まいし、10月に祖母が他界すると叔母と大阪へ。翌年3月には家族の中で唯一再会できた長兄夫婦と横須賀で暮らし始めた。
* *
17歳の頃に体調不良で血液検査を受けると、白血球数は正常の3分の1。原爆症だった。それでも現役時代はがむしゃらに働き、古希を過ぎた2年半前からは「今できることをやろう」と、自主的に近所の豊田小学校で毎朝登校時の児童にあいさつする活動を続ける。
『人は生まれた時から死ぬ時が決まっている。その日が来たら、どんな形でも死ぬ。人は生かされている』――。戦中に病死した父の葬儀で住職に受けた説法が今も記憶に鮮明に残る。被爆から68年経った今も白血球数は少ないが、「必ずしも原爆に負けるわけじゃない。人間は放射能に勝つことだってできる」。
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