東日本大震災から10年。被災地では復興が進み、日常生活を取り戻している人も多い。その一方で故郷を離れた人、生涯を閉じた人も。福島県南相馬市小高区に住んでいた故・中野義政さんは、震災直後、戸塚町に在住する、娘の林年枝さんの家に避難した。年枝さんに義政さんが経験したことなどを聞いた。
年枝さんによると、海岸から直線距離で500ⅿの位置に住んでいた義政さんは地震発生時、裏山で畑仕事をしていたという。午後2時46分、軽トラックがぴょんぴょんと跳ねるほどの大きな揺れを感じる。南相馬市では震度6弱を観測した。
ラジオでは津波の注意が促されていたが、一向にその気配は見えない。義政さんは家に戻るか迷いつつ、しばらく留まると海の水が一気に引け、真っ黒な海底が見えた。そして大きな波がたちまち押し寄せてくる。家は流され、仕事に行っていた同居する長男夫婦と合流できたのは翌朝。その後、家が無事だった同市内の長女の家に避難した。この日のことを年枝さんは「電話が通じず、みんな死んでしまったと思った。連絡が来たときは涙がでた」と振返る。
原発事故が追い打ち
そんな中、福島第一原子力発電所で水素爆発が発生。国は南相馬市を含む半径20Km圏内に避難を指示。義政さん一家は、避難所を転々としながら郡山にたどり着いたが、混乱する避難所で「放射線を浴びた」などと風評被害にあったという。
助けに行けない状況
年枝さん夫婦も車で福島に向かうため区内のガソリンスタンドに並ぶが、往復分の給油はできなかった。数日後、埼玉に住む親戚が義政さん一家を福島に迎えに行き再会。持病を持つ父を案じ、看護師の年枝さんとの同居が始まった。
多くの支えがあった
戸塚へ来た当初、義政さんは相当衰弱していたが、散歩中に人と会話をするうち、元気を取り戻していく。「通帳も保険証も全て流されたけど、免許証で銀行や病院で対応してもらった。本当にたくさんの人から助けられた」と年枝さん。
その後、義政さんは仮設住宅に当選し、念願だった福島へ帰ることに。2016年南相馬市小高区は避難指示が解除。戻る人は少なかったが、「生まれ育った地で最後を」と親族が願い、高台へ家を建てた。2年ほど暮らした18年、義政さんは92歳で亡くなる。年枝さんは「帰郷が決まり、父はとても嬉しそうだった。小高に帰れてよかった」と振返った。
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