山形県白鷹村(現・白鷹町)出身の沼澤今朝夫さん。1944年13歳になる年の5月に、特攻隊にも組み込まれた少年飛行兵を目指し、米沢市の飛行場でグライダーの訓練に5か月間参加した。「県内の各国民学校から1人ずつ集められる。でも、同級生たちは誰も行きたがらなかった」。その頃、沼澤さんの村に残っていたのは、子どもと高齢者と女性がほとんどで、若い男性の多くは戦争から戻って来なかった。「兵隊になれば生きて帰ってこられないと、みんな薄々気づいていた。それでも、心の奥底で”国のために”という思いがあり、先生に声をかけられて心を決めた」
簡易な機体で練習励む
訓練は泊まり込みで、集められた80人の学生は4組に分けられ、木と鉄板でできたグライダーで練習をした。1人が操縦席に座り、12人でグライダーの前方につく二股に分かれたゴムを引っ張る。残りは機体を支え、教官の「離せ」という合図で手を放すとグライダーが飛ぶ仕組み。「エンジンはなく、飛んだ時の高さや簡単な操縦に慣れるための訓練。それでも、飛んでいる間は気持ちが良かった」と笑う。
飛行訓練以外の時間は運動やグラウンド整備、教官から指導を受けるなどしていた。「教官からは日本はいい戦績を収めていると教えられた。今思えば空襲もよく来ていたが、当時は何も疑問を持たず満足していた」
食への不満
一方で、大きな不満となっていたのは食事。玄米のおかゆを1日3食食べていたが、その量は少なく、成長期の子どもが一瞬で食べ終わる程度。1度だけ許された帰宅後には、農家の家の子はおにぎりを持ち寄り、それ以外の家の子は靴を持ってきて交換したとか。「おにぎりは本当に貴重でね。靴と交換できるほどの価値があった」
訓練が終了し、1945年1月に沼澤さんは少年飛行兵に志願したが、身体が小さかったために乙種(2次)合格だった。その7カ月後に終戦を迎え沼澤さんのもとへ招集命令が来ることはなかった。「入隊後も訓練はあったので、あと1、2年戦争が続いていれば、私も生きていなかったかもしれない」と静かに語った。
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