30周年を迎える「金沢美術クラブ」で講師を務める 臼田昴(たかし)さん 金沢区在住 90歳
慕われる「世話好き」
○…「今でもいろは48文字覚えているよ」。太平洋戦争中に習得したモールス信号でツートントンと机を打った。1944年、独立無線隊として日本軍の拠点・トラック諸島(現ミクロネシア連邦)に。帰国後、「鮮明に覚えている」という当時の風景を多数絵に描いた。5月20日(日)まで開催される金沢美術クラブの30周年記念展にその作品の一部が展示される。同クラブで絵画の基本から風景画などを教えること早10年。90歳、まだまだ現役だ。
○…長野県小諸出身。絵を描くことが大好きだった。「小さい頃は天才だと言われたよ」と笑う。小学校就学前から才能を発揮。近所のブリキ屋に頼まれ、パチンコ台に七福神や鶴亀の絵を描いたこともある。「良いお小遣い稼ぎになった」と微笑む。「たかちゃん」と呼ばれた天才少年は小学1年はクレヨン画、3年で水彩画、油絵まで修得し腕を上げていった。
○…トラック諸島で創刊した雑誌「芽甘藷(めかんしょ)」では得意の絵が表紙を飾った。「食べ物もなくなり弱った兵士達が、浅草の握り寿司が美味かったとか話をするんです。日本を思い出したら元気になると思って」。米軍による空襲で希望を失いかける兵に希望を与えたい一心で創作。俳句や短歌、思い出話を募集した。表紙には島と遙か日本に続く青い海。「発行以降、最近顔色がよくなったなぁという声をよく聞いた」と懐かしむ。
○…絵に加え運動も得意だった。小学5年生から野球部に入部。走って1番、打って1番のピッチャーだった。1949年からは日本鋼管野球部で社会人野球の投手として活躍。誰からも慕われ、面倒見の良い性格は自然と周りに人を集めた。日曜には野球部員らが家族を連れてくるため家はいつも賑やか。後輩が結婚する際には反対する花嫁の父親を説得しに5回も通いつめた。「知らん顔できないんだよ」。「世話好き」な人柄と朗々とした語り口調に今日も輪ができる。
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