米軍住宅地として約70ヘクタールにおよび接収されていた本牧地域。終戦間もないころ、接収地内で多くの日本人が働いていた。
そのうちの一人である山崎寿雄さん(81)=中区本牧間門=は、海軍省で働いていた父の知り合いから紹介され、50年7月に”ボイラーマン”となった。疎開先の九州島原から戻ってきたばかりで16歳だった。
接収地内にはいくつかの大型ボイラー施設があり、そこから配管で蒸気が各住宅に送られる仕組み。山崎さんは燃料となる石炭の燃焼チェックや量の調整、灰の除去などを担当していたという。
一緒に働いていた仲間は、米軍に即戦力として雇われた人ばかり。「ボイラーを扱ったことのある船の関係者が多かった。年配者ばかり」と山崎さん。「とにかく給料がよかった」と戦後、タクシー乗務員をしていた父の月給を、職に就いて3、4カ月で超えたという。その後、父が体調を崩したため8人兄弟の長男として家族10人全員を養った。「給料はすべて家計に充てました。自分の小遣いは、日曜日のアルバイト代だけです」
喧嘩や遊郭、街の風景
当時、米兵同士の喧嘩は日常茶飯事。「ボクシングの試合でヒートアップした観客が、白人と黒人で乱闘になっちゃってね」と振り返る。また本牧にも並んでいた米兵相手の遊郭は当時の街の風景だ。
人員整理から板金工に職種を変えつつ、山崎さんは接収地で計10年ほど働いた。その後、米軍住宅を離れ板金関係の仕事をし62年に独立、現在にいたる。
助け合い、大切に
疎開先の島原で身近に感じた長崎の原子爆弾。避難してきた被爆者は数日の内に死んだという。「どんな理由があれ、戦争が起きれば悲惨なことになる」と話し「戦うために生まれてきたわけじゃない。互いに助け合う精神が必要」と訴えた。また米軍住宅でのボイラーマン時代を振り返り「アメリカの人たちは、とても論理的。感情的な動きは機能しない」と話していた。
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