本牧 気まぐれ歴史散歩 【6】 『ペリー艦隊と本牧』
ペリーが現在の横浜開港資料館あたりに上陸したことはみなさんご存知ですが、ペリーは日米和親条約締結交渉の約2カ月間、ずっとその場所にいたわけではありません。ペリーはこの八聖殿がある丘から肉眼で見える海に艦隊を停泊させ、その船の上に滞在していました。暫くの間、ペリーは本牧の目の前の海にいたのです。
幕府はペリー艦隊再来前から、艦隊との交戦も想定し、鳥取藩に本牧での警備を命じました。当時の鳥取藩は水戸藩主徳川斉昭の五男で後の15代将軍慶喜の兄・池田慶徳が藩主を勤めていた有力な藩です。日本海の海防のため、西洋流砲術に長けていた藩であったことから、浦賀を突破された場合の江戸の海防拠点である本牧の警備を任されたのではないかとも言われています。当時この本牧にも十数本の大砲が配備されました。
しかし実際は交戦することなく、幕府の使者とペリーらが黒船で宴席をもうけ盛り上がったことや、ペリー艦隊が滞在中に東京湾の測量を行い本牧の崖に何らかの目印をつけていったことなど、ペリー艦隊や鳥取藩の日記から当時の様子がわかっています。また、今も本牧には鳥取藩屋敷の井戸や、家臣とやって来た使用人の墓が残されています。
この散歩も本牧の岬の先端までまいりました。次回はその先端に建つ八聖殿についてご紹介させていただきます。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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