8月15日は終戦記念日。戦時中、区内・保土ケ谷町、通称「元町」で学生時代を過ごし、当時の体験を地元の子ども達に伝え続けている吉川明さん(81)に話を聞いた。
生まれてから現在に至るまで、ほとんどを地元・保土ケ谷で過ごしている吉川さん。8年前に自治会の会長職に就いてからは、近隣の小学校などで自身の戦争体験を伝える、貴重な「語りべ」としての役割を果たしている。「世の中のため人のために、身体が許すかぎり力を尽くしたい」。
戦渦の学生時代
1941年に太平洋戦争が勃発し、戦況が激しさを増しつつある中、岩崎小学校を卒業。市内にある私立中学校へ入学した。吉川さんをはじめ生徒達は勉強どころか、毎日のように各地の小学校に駆り出され、非常時に備え防火水槽掘りなどの作業を行っていた。
「食べるものも白米なんて無かった。サツマイモを粉にして作った団子や、だしも取ってないすいとんばかりだったが、それでもあるだけ良かった。保土ケ谷の地は比較的土壌に恵まれていたから、当時からジャガイモを作ったりして、なんとか空腹を満たしていた」と振り返る。
中学3年生だった1945年5月29日、横浜は大空襲を受けた。「その日は朝から横浜に警戒警報が鳴って、自分は大船方面に動員されるはずが急遽(県内は)危険だからと東京の蒲田での作業に変更された。だから僕や友人は無事だったけれど、その間に横浜の空は真っ黒になっていて、夕方、何時間もかかって蒲田から歩いて帰ると辺り一面焼野原になっていた。いたる所に死体がごろごろ見られた」。何も無くなった横浜の風景は、今も目に焼き付いて離れない。
その後もいつ戦争が終わるか分からない状況は続き、吉川さん自身、兵隊への召集通知が来る前に終戦が告げられた。「あと数年戦争が長引いていれば、僕も生きていなかった」という想いは無くならない。
「語りべ」として生きる
81歳になった今では、近隣の小学校に昔遊びを教えに行くなどする傍ら、社会の授業などで当時の食糧事情や、勉強がしたくてもできなかった状況を生徒達に語り伝えている。
「戦時中のことを話しても子ども達の多くはピンとこないかもしれない。でも、中には興味を持って、個別に質問に来る子もいる」。死と隣り合わせだった自身の学生時代を語る言葉は、教科書に書かれた文字よりも、戦争を体験していない教師の言葉よりも重く子ども達に響いていると信じ、「保土ケ谷で戦争を生き延びた者として、これからもこの地で平和の大切さを伝え続けたい」と話した。
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