1945(昭和20)年5月29日に米軍のB29爆撃機が投下した焼夷弾が横浜市街を焼き、8千人以上ともいわれる死者を出した「横浜大空襲」。戦後76年、時の経過とともに、あの惨劇を知る人の声を耳にする機会がなくなりつつある。川辺町に暮らす坂下和子さん(78)に母から伝え聞いたあの日の惨劇を語ってもらった。
「あと1分遅かったら焼け死んでいたと思うんです」。当時2歳だった女児は母に背負われ南区宮元町の自宅から防空壕へ避難した。壕に入る直前、母は後ろから避難してきた男性に背が燃えていることを知らされた。その炎の中には和子さんがいた。和子さんにこの時の記憶はない。後に母から聞いた辛い記憶だ。
戦後、母が戦争のことを口にすることはなかった。しかし和子さんが小学生の頃、「火と穴が怖い」と母に漏らすと、初めて戦時中の出来事を話し出した。幼い娘を背負い防空壕をめざしたこと、娘の雛人形が焼夷弾で焼失してしまったこと…。
消えぬ恐怖心
テレビの待機電源のライトや留守番電話のボタン、15階の自宅から望む横浜港湾部の点滅灯など赤い光を見たり、自宅の上空を飛ぶ飛行機の音を耳にすると恐怖感を覚えるという。75年以上が経った今でも、2歳の女児の心についた傷が癒えることはない。
芽生えた使命感
「横浜方面の空が真っ赤になっていた。『もう親に会うことはできない』。そう覚悟したんだ」。昨年、当時、厚木に疎開していた兄から、あの日のことを聞く機会があった。
2歳だったあの日の記憶はないが「最近になって、母や兄から伝え聞いた戦火の記憶を伝えなければならないという使命感が出てきた」という。「絶対に戦争は嫌」。強い意志を感じさせるその目には涙が滲む。
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