「あとの日本を頼むよ」。特攻隊の若き兵士は、そう言い残して空へ飛び立った――水島章さん(北寺尾在住・87)は陸軍の航空整備士として、1945年3月に宮崎県の特攻基地「西都城飛行場」に配属された。「赤とんぼ」と呼ばれる特攻機を整備し、離陸の瞬間まで兵士を送り出すのが職務だった。
「天皇陛下のためにと、死ぬことが名誉とされていた時代」。水島さんは当時を回顧する。中学校には兵器庫が置かれ、遠足へ行けば戦争ごっこ。兵隊さんに憧れを抱き、国を守る勇敢な兵を目ざすのは軍国少年にとってごくごく当たり前の流れだった。
16歳で志願し陸軍に幹部候補生として入隊。「パイロットになるには目が悪かった」。本命は叶わず整備士として配属されることとなった。
エンジニアとして忘れられない出来事があった。12月から1月にかけての派遣演習の際、B29の墜落機を見に行った。「エンジンがきれいで油一滴も出ていない。これは負けたと思った」。日ごろ油まみれのエンジンを扱っていただけに、ショックは大きかったという。
都城の特攻基地に着任した翌日、アメリカ軍のP38による空爆を受けた。「林に死体がぶらさがり、三角兵舎も壊滅」。苦戦を強いられる日本の最後の手段が、特攻だった。「見送った兵士の名前を聞いておけばよかったと後悔している」と、特攻兵の名簿を眺めながら水島さんはつぶやく。
減りゆく語り部
2006年、戦争体験の講演をはじめて依頼された。「戦友会も半分以上はいなくなっちゃった。ついに自分の番が回ってきたのか」。年に2回集まっていた幹部候補生の同窓会「戦友会」も、当初は約60人いたが、今や13人ほどに。気づけば語り部がいなくなっていた。
今年で戦後70年。戦時中と比べはるかに豊かな世の中になった。「生まれた時から何でもある時代。よく考え、この時を大切にしてほしい」。水島さんは静かに語った。
◇ ◇ ◇
終戦から70年となる今年、弊紙では区内在住者の戦争体験を不定期連載する。あの戦争で何が起こっていたのか、語り部が見た景色を記していく。
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