「思い出すと今でも震えを覚える」。山崎栄子さん(79)は、10歳の時経験した1945年4月15日の空襲のことをそう語る。
山崎さんは本町通に6人きょうだいの長女として生まれた。「当時は空襲に備え、枕元にランドセルや防災ずきんを置き、モンペ姿で床に入った」と振り返る。
その日、空襲が始まると山崎さんは母親らとともに總持寺へ逃げた。「父親は家を守るため留まった。女・子どもが逃げ、父親らが家に残ることはどこの家でも普通だった」
二度の機銃掃射
本町通商店街を通り、汐見橋のたもとまでたどり着くと、飛行機が急降下してきた。敵機に気を取られていた山崎さんに母は「ふせて」と叫んだという。
さらに現在の本町通入口交差点近くにあった郵便局まで来ると、二度目の機銃掃射に襲われた。「母はもうダメだと思ったそうですが、幸い家族は無事でした。逃げようと思う足は怖くて進めなくなっていた」
機銃掃射を仕掛ける飛行機は、操縦士の顔が見えるほど近くに迫ってきた。彼らの顔は鬼のように見えたという。
最期は一緒に
目ざしてきた總持寺周辺では、恐ろしい光景が待ち受けていた。火だるまになって逃げまわる人がいたのだ。「その状況を見て母も恐ろしくなったのでしょう。母は家に引き返そうと言った。最期は家族一緒にいようと、決意していた」
家までの帰途、危険だと止められても母は必死に歩き続けた。
「迎えた父は叱ったが、母の『死ぬときは一緒に』という思いを知ると、何も言わなかった」。家族のために覚悟を決めた母。「母から学んだことは大きい。自分自身も家族を最後まで守る母でありたいと、今も思っている」
よみがえる恐怖
知人の様子を見にいこうと、潮田方面に向かうと、今の潮田公園周辺には歩くとつまずいてしまうほど多くの死体が、転がっていた。死体はその近くで焼かれていたという。
おぞましい当時の風景は忘れられない。「今でも、あの辺りには行きたくない」と漏らす。
生きるが優先
終戦後も必死に生き抜くために家族を支える日々が続いた。着物と食糧を物々交換してもらいに、一人で農家を訪ね、譲れる着物がなくなると鶴見銀座商店街でコッペパンを売って稼いだ。「母が売るより子どもの私が売った方が、大人は買ってくれた」。自分より幼いきょうだいばかりだったため、長女としての責任感でいっぱいだったという。
「学校に行きたい」と話したこともある。「父には『生きていくことが先。生きていなきゃ学問もできない』と諭された」。懸命に生きた記憶をこれからも後世へ伝えていくつもりだ。
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