4歳で終戦を経験した岩本昭二さん(83)は昨年3月、今の子安台公園にあった高射砲陣地にまつわる記憶をまとめた手記を横浜市史資料室に寄贈した。
高射砲陣地とは、敵の航空機の襲来に備え、地上から高射砲で敵機を撃ち落とすために配置された軍事施設。岩本さんは80歳を超え、自分の記憶を後世に残したいと考えていた中で、戦時中自宅の近くにあった子安台の高射砲陣地について調べていた。その中で接点のあった市史資料室から寄稿を依頼され、手書きにしてノート13ページ分に渡る手記を丸一日かけて書き上げた。
手記では主に、1945年の4月4日にあった夜間空襲や、終戦後米軍に接収された高射砲陣地での出来事などが書かれている。その詳細を岩本さんに語ってもらった。
紅蓮の炎と漆黒の機影
4月4日の真夜中、空襲を知らせる大音量のサイレンが耳元に響いた。岩本さんは母親に連れられ、自宅から2、3分離れた今の子安台交差点の北側にあった防空壕に避難した。
大人の足元から恐る恐る外を見ると、横浜方面が夜空を焦がす真っ赤な紅蓮の炎に包まれていた。まもなく、ゴオーッという轟音が聞こえ、空を見上げると、子安台の高射砲陣地から打ち上げられた曳光弾(えいこうだん)が光を放った。すると、空を埋めつくすB29の真っ黒な胴体が運河のように次から次へとやってくる様子が浮かび上がった。『神奈川区誌』にはその数、240機と記されている。
着物姿の母と
終戦を迎え、子安台の高射砲陣地も米軍によって接収されたが、岩本さんの自宅周辺は接収区域に入らず残っていた。自宅からすぐの陣地では、米兵たちが暇つぶしにカービン銃で空き缶を撃っており、住民は不安な気持ちだった。終戦から1カ月ほどのなか、交渉を託されたのが岩本さんの母だった。
フェリス女学院出身で英語が話せた彼女は、誕生日を迎え5歳になったばかりの岩本さんを連れて、着物姿で司令官に「生きた心地がしないから射撃はやめてほしい」と要請。話を聞いた司令官は「分かった」と伝え、その後米兵が射撃をすることはなかった。
帰り道「話が通じて良かった」と胸をなでおろす母の姿を、岩本さんはよく覚えているという。
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