きょう8月15日は、終戦の日。戦争の惨禍から79年が経過した。神奈川区内でも5月の横浜大空襲をはじめ、多くの命が奪われた。戦中・戦後の区内の様子を『神奈川区誌』から読み解いた。
1931年の満州事変に端を発し、日本は戦争へと進んでいった。戦争の拡大により、区民の生活にも苦難が降りかかる。39年からは渇水により市水道局は給水制限を実施。翌年には軍需生産の増大で電力も不足、食べ物や生活用品も割当配給制が広まった。41年の太平洋戦争開戦後、翌年には衣料切符制や野菜の登録販売制が実施され、八百屋の店先には行列が出現した。44年には火災対策として建物を壊す建物疎開も強制的に実行された。東神奈川駅前や前年11月に開設したばかりの新子安駅前が指定され多くの区民が移転を強いられ家屋が壊された。
子どもたちを守るための学童集団疎開も実施。区内11校の学童が、羽沢町や菅田町のほか、港北区や津久井郡、足柄などに疎開。子どもたちは、東泉寺=羽沢町=や専称寺=菅田町=などの寺院や温泉旅館で暮らした。『子安小百年史』では、風呂の確保のために、周辺地域の葦や桜を刈り燃料としたという職員の話が記されている。また青木国民学校6年生は、「常に何か食べたかった」状態だったと振り返っている。
空襲の標的は東神奈川駅
44年11月24日には横浜市内でB29爆撃機による初の空襲が行われ、3機が来襲し218発の焼夷弾が落とされた。翌年の元旦は午前4時に警報発令のなかで迎え、2月には新子安、4月の2回の空襲では区内全域に被害が及んだ。この時期には防空壕づくりも盛んになった。
5月29日の横浜大空襲では、市内に44万発に近い焼夷弾が落とされた。米軍の定めた5カ所の目標地点の一つが、東神奈川駅周辺。区内では約5万発の焼夷弾で、598人が命を落とした(空襲直後の発表)。三ッ沢・青木・神奈川・二谷・西大口・斎藤分の各公民学校の校舎は全焼。横浜大空襲の最終的な全体の死者は、8千人以上ともいわれている。
商店街の復興
終戦直後の区民を苦しめたのが、「住宅と食糧」の問題。焦土と化した区の中心部での住まいは、焼跡に錆びたトタン板の小屋で、風雨や来る冬の寒さをしのげるものではなかった。食料の遅配・欠配も増え、栄養失調が一般化し、餓死者も出るに至った。
復興の障壁となったのは占領軍による接収。横浜市は全国の62%にあたる土地と建物が接収された。区内では瑞穂ふ頭や神奈川小学校、日産自動車や三菱倉庫など、土地69万平方メートル・建物3万5千平方メートルの接収を受けた。
険しい復興の道のりの中、47年には青木・浦島丘・六角橋で新制中学校がスタート。同年には横浜線大口駅も開設された。バスの開設や住宅の増加で栄えた大口は、翌年に市内初のアーチを建造し商店街協同組合を発足。神之木エリアの中小工場も復興し、区内復興の心臓部となった。
戦中はコンクリート造りの幸ケ谷小に疎開していた区役所は49年に青木通(当時)に新庁舎が竣工。同年、旧区役所では日本貿易博覧会が開催された。博覧会を機に商店が増え、反町商店街が活気を取り戻すと、4年後の区画整理で道路整備が進み、反町・松本町・三ツ沢に次々と商店街が結成された。49年には横浜中央卸売市場も復活。市民の生活に欠かせない生鮮食糧品の拠点として重要な役割を果たした。
中面では、区内在住の戦争体験者へのインタビュー記事などを掲載。
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