取材の折、「ついで」と言って見せてくれた一冊の本。売り物として世に出回ったものではなく、『ホンダ』こと本田技研工業(株)の初代宣伝部長が定年する際に、担当した広告やチラシを一冊にまとめ、個人的に制作したものだ。所有するのは(株)ホンダクリオ共立(馬絹)の石崎護会長。「長年世話になったから」と本人から手渡されたそう。そのエピソードの裏側には、仕事への情熱を燃やし続け、時代を切り拓いてきた石崎会長への感謝の念が込められている。
「断られてからが営業」
川崎・横浜に10の拠点を持ち、年商は70億円にのぼる(株)ホンダクリオ共立。同社を一代でゼロから築き上げたのが石崎会長だ。
単身、地元栃木から上京しホンダの二輪車ディーラーに入社したのは、1959(昭和34)年、20歳の時。栃木の訛りが抜けず整備を志望したが営業職へ。右も左もわからない中、毎日何百件と商店や企業へ飛び込み営業を続けた。
初めて受注したのは20日目のこと。「感激して震えた」と振り返り、今もその店の写真は大事に取ってあるという。他にも飛び込みで3年通いつめ受注に至り、3代50年を超える付き合いにつながった営業先もある。「断られてからが営業の始まり。努力して努力して-、一生懸命取り組んでいると、お客様が可愛がってくれる」と熱く語る。
受注して終わりではなく、客からの些細な要望にも応え続け、身を粉にして仕事に情熱を注いだ。
27歳で独立し順風満帆のように見えたが、赤字続きで倒産の危機に直面したことも。販売に全力で打ち込み巻き返したものの「店長の仕事をし、社長業をしていなかった。会社が進むべき道を示せていなかった」と当時を振り返る。経営理念や営業方針を作り毎朝唱和、徹底した。
70歳で退任し会長となった今も、毎朝のルーティンは続けている。毎朝5時10分に起床し、今も仕事ができること、親や社員、地域への感謝を大きな声に出して手を合わせる。2キロ程の散歩中には経営者の講話をイヤホンで聞きながら、チラシをポスティング。始業2時間前に出社し店舗まわりを掃除する毎日。週に数回はプールを12往復するのが健康の秘訣だ。
「やれば道は拓ける」
「何事も感謝しなくては。社員の働きがあり、仕事も、地域貢献活動も続けられる」。今も、入社したディーラーを紹介してくれたホンダ初代監査役や恩人など、命日には必ず墓前に参拝。仕事への熱が伝播し、冒頭の宣伝部長からの本につながった。
石崎会長は「がむしゃらに苦労しないと。少しでも若い子たちが参考にしてくれ、成功につなげてくれればうれしい。やればおのずと道は拓ける」と次代へメッセージを託した。
宮前区版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|
|
<PR>