高津物語 連載第八三二回 「神楽坂毘沙門天善国寺」
神楽坂毘沙門天として親しまれている鎮護山善国寺は、日蓮宗池上本門寺の末寺で(神仏混合の江戸時代中期から)牛込神楽坂善国寺と溝口宗隆寺とは、深い関係があった。
神楽坂にある鎮護山善国寺の歴史は、文禄四年(一五九五)徳川家康によって、日本橋馬喰町に創建されたことに始まっている。
その後一時麹町に移ったが、寛政四年(一七九二)火災のため、翌五年に神楽坂の現在地に移転して来た。江戸文化真盛りの頃である。「毘沙門天」は、新宿区指定有形文化財となっている。
善国寺初代住職の日惺上人が、鎮護国家の意を込めて安置したものと聞く。
毘沙門天の登場の歴史は古く、仏教の起こる以前、古代インドに遡る。
ヒンズー教等の原始宗教の中でも、凶暴な威力を有する鬼神ほど、人々の崇拝の度合いが強かった。
その中の一類に、ヤクシャと呼ばれる鬼神グループがあった。訳して薬叉神、夜叉の字を当てる。
夜叉神は仏教体系で、枢要な位置を得、「毘沙門天」と呼ばれて尊重された。
悪事を為し人を害する夜叉羅利を降伏せしめた毘沙門天は、脚下に踏みしめ仏法を守る神将グループを形成する。須弥山上喜美城に住む帝釈天に属し、山の中腹の東西南北門を守護する任務を負っていた。毘沙門天は別名を、多聞天(北方)と呼ぶ。他の三天は、持国天(東方)、増長天(四方)広目天(南方)と称している。(『邪鬼の性』水尾比呂志、淡交新社刊)
後に「七福神」の一人として、福徳を授ける神様にもなった。神楽坂毘沙門天の縁日は、明治二〇年(一八八七)頃、警察の許可を初めて得「牛馬車禁止」の標識を出した。現在の歩行者天国の先駆けである。「牛込」と云う地名の由来は、奈良時代から本当に牛の牧場があったことによる。北の坂を上って行くと、赤城神社があり、赤城元町と赤城下町がある。十六世紀に群馬の赤城山麓から来た豪族の支配地だったことが、地名の由来となっている。
神楽坂と溝口が日蓮宗の縁で、深い関係にあるのは、心強い限りである。
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