高津物語 連載第八三三回 「溝口宗隆寺」
溝口宗隆寺住職島田堯存氏の「化政期の溝口宿」という題の小文がある。
溝口宿は小杉宿より後に宿場になったと、教育大学浅香教授から承っていること、溝口宿が宿場としては少々物足らずしてか、多摩川を渡って二子溝口宿といったという。
戸数においては宝永六八戸、文化九四戸、天保八九戸、明治二年一○四戸と次第に増加して、商人調べにおいては三軒、十軒、十七軒と、前記年代にそって上昇し、このうち旅人宿六、居酒屋四、煮売り二、鮎商一、髪結い二、湯屋一を数え、生産面においては油絞り一、醤油造り一、干菓子造り一、紺屋一、下駄足駄造り一〇、傘造り三である。(『脇往還宿場町の発達』)
この後、世の中が太平を謳われたこの時期、庶民信仰が高揚して、さまざまな講中が発達する。
江戸市中に於いては、御会式行事が盛大に行われるようになり、多摩川を超えて溝口にも移入され、日蓮宗溝口宗隆寺は、御会式と行事の盛大な寺となった。
溝口宗隆寺に比較して、神楽坂善国寺は、江戸市中で池鴨本門寺末寺の屈指の一つに数えられていた。
明治六年(一八七三)神仏分離布告により、溝口赤城神社御神体を宗隆寺に移し、溝口神社社地にあった「番新堂」を廃止、池中法泉坊、羅刹堂腐朽のため、此れを廃止し、祖師堂に安置す―と記録にある。
この当時の宗隆寺御住職は、第二十九世日容代師であった。
翌明治十四年(一八八一)宗隆寺は宗祖六百年遠忌に当り、宗隆寺第二十九世日容代師は、神楽坂善国寺に晋(すす)まれた。
毘沙門天善国寺の初代は、佛乗院日惺上人といい、池上本門寺十二代貫首を勤めた方である。
上人は、二条関白亜昭実公の実子で、父の関係で徳川家康公と親交が厚かった。
江戸開城と共に、二人は再開、家康公は江戸馬喰町に寺地を与え、さらに「鎮護山・善国寺」の山・寺号額を認めて贈り、開基となられた。かくて、毘沙門天を奉安する名刹・神楽坂善寺が誕生した。
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