高津物語 連載第八三七回 「武州大山」と「ぼろぼろ」
武州大山(ぶしゅうおおやま)に通じる道を、大山街道という事位なら、誰でも知っている当然の事実ではないかと思う。
しかし、大山阿夫利神社のある武州大山が、神奈川の何市に該当するか?の設問に即答出来る人は、数奇(かずまれ)ではないだろうか。
という私自身も、十数年前に、梶ヶ谷にある国土交通省川崎国土事務所の依頼で、大山街道マップ造りの一員として参画したが、全行程を自分の足で歩いて初めて大山街道を、識った気がした。そんな中でも、伊勢原宿の終点に近く、狭い旧街道を抜けて、突然草原が目前に広がり、大山の裾野と憶しき光景だった。
正面に武州大山が泰然と大きく黒々と聳(そび)え立ち、大山を更に更に際立たせる様に、緑の草原が広大に広がり、裾野を形成していた。その中に伊勢皇大神宮の社殿が、何の衒(てら)いもなく、素裸の状態のままで、大山に向かって建っていた。
武州大山の裾野に、伊勢皇大神宮を勧奨し、地名を伊勢神宮の坐(ま)します原野と命名した誇りを感じた。
後に県立伊勢原高校から講演依頼を受け、同校に出向いた折、『ホントに歩く大山街道』の著者・中平龍二郎氏から、同高校外階段の二階部分からの眺めが、富士山も入らず、大山だけが見える最高のビューポイントだと教えられた。
正面からだけ大山を見続けてきた人々には、大山の別の側面は、新鮮な感じだ。
私はこの時、先刻見て来た伊勢皇大神宮前の草原は『徒然草』第百十五段に登場するぼろぼろの居住地に思われ、非僧侶非俗の無頼乞食の類が、徒党を組み、山野に放浪したぼろぼろ―伊勢原から片歯高下駄で、多摩区宿河原の小庵阿弥陀院で、敵対する虚無僧同士、いろおし房としら梵字(ぼんじ)が無言の対峙を続けた後、心行くばかり貫ぬき合いて、共に死んだという話だ。
「ぼろぼろ」の「ぼろ」は梵論字、梵論師のぼろで、密教でとなえる真言陀羅尼の一という集団で、髪を切らずに「虚無(こむ)」を被(かぶ)り、家を出、寺院を出て諸国を徘徊した。彼等の集まるところも、寺院ではなく小庵の寮であった。「虚無」は僧侶の世界からも遊離した社会規範外集団―その集積地が伊勢原だと確信した。
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