高津物語 連載第八三九回 「太田道灌(どうかん)」
伊勢原高校入口を出て八王子通り大山道を行くと大山街道に突き当たり、更に左へ行くと、東名高速道路トンネルを潜り「粕屋上宿バス停の先に信号機の付いた十字路があり、ここを左折して坂を下ると、渋川橋に架かる道灌橋に出る。この橋を渡ってすぐ左側に太田道灌の供養塔がある大慈寺がある。(略)供養塔は非業の死を遂げた道灌の霊を慰めるために建られた」(『ホントに歩く大山街道』)
周知のように、文明九年(一四七七)太田道灌は、山内上杉氏を撃ち小沢城を攻めたが、守りが固く攻め落とせなかった。
その後、太田道灌は平塚城を攻め落とし、再び小沢城を攻めて家来を置き、更に小机、丸子城を攻め落とした。
太田道灌は自らの城築城の必要を痛感し、「多摩の横山」の南端―現川崎市幸区加瀬山に決めたが、夢に鷲が道灌の兜を掴み、駒丘の方に飛び去ったので、縁起が悪いので止めたという。
今でも「夢見ケ崎」と云う地名が残されている所以である。
その後の道灌の江戸城建設に関する諸貢献は、良く知られる通りであり、特にここの所何回か『高津物語』が触れて来た溝口宗隆寺の島田聖人が、栄転した牛込神楽坂「善国寺」辺の築城に功績のあった太田道灌の功績は、初めて知り得た事実であったし、一層身近な親近感を覚えたものだ。
もともと、太田道灌は父の資清が相模国粕屋に本籍を置いていた為に、伊勢原市で生まれたと考えられていた。江戸城を築いた功績で有名になった道灌は、和歌にも優れた才能を発揮し文武両道を備えた武将で、晩年は、山内上杉家と扇谷上杉家の争いに巻き込まれ文明十八年(一四八六)七月二六日、その才能を恐れた主君上杉定正(扇谷上杉)の粕屋館におびき出され謀殺された。道灌は死の間際に「当方滅亡」と言い残し、自分が死ねば、扇谷に未来はないとの予言という意味だったという。道灌なき後の関東地方は、北条早雲によって攻撃され、早雲の孫北条氏康によって扇谷上杉家は滅亡させられる。
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