高津物語 連載第八五一回 「明治三十年代の溝口」
祖母の嫁いで来た頃の大山街道溝口に思いを馳せる。
ゆるやかな起伏と多摩川の清流、そしてその自然の中に生活する人々の姿は、文学者たちに無限の題材を提供した筈である。
「大都市の生活の余波とが、此処で落ち合って、ゆるやかに、渦を巻いて居る」と『武蔵野』に書かれた「此処」とは、橘樹郡高津村溝口周辺だが、明治三十年国木田独歩が『国民之友』に『武蔵野』を発表して以来、多摩川河畔溝口の潜在的特徴である「浪漫主義的傾向」は、多くの人々が認めることとなった。
その端緒となったのが民俗学者柳田國男の発言―「溝口―面白い所ですよ!一度、行って御覧なさい」と田山花袋に勧めた伝説の一言であった。柳田発言は田山花袋と同行した、国木田独歩に受け継がれた『武蔵野』に結実する。
余りにも有名な「多摩川の渡しを渡って少しばかり行くと、溝口という宿場がある」はその象徴である。
明治三十年代、溝口の景観は、立錐の余地のない程溝口・片町・下作延迄の大山街道に並んだ商店で、極めて珍しい街頭風景を型造っていた。
今片町までの商店数を数えてみると北側部分のみで五十二店舗もあり、南側の店舗数も、実に五十一店舗である。
祖母の嫁いで来た時期は、これより十数年後になるが、基本的な店舗数は変わっていない筈である。
それに比較して今日の大山街道の店舗数は、ざっと数えて北側二十店舗弱であり、時代の変化を感ぜざるを得ないといえる。
が、『ホントに歩く大山街道』(風人社)の著者、友人中平竜二郎氏によれば、それでも溝口の街並みが、旧大山街道の他都市の街並みと比較して、一番良い(まとまっている)街並みだといわれるのだ。
今現在の溝口駅前中心の店舗構成は、数年で解消される雰囲気が、高津地区に出て来た。
「高津駅」に隣接して「東急ストアー高津店」がすでにオープンした。
次いで「帝京大学溝口病院」が、高津駅に隣接するNECビルに移動し、現地に本格的な病院ビル建設に掛るという。溝口の奥座敷―高津地区の発展を願う。
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