高津物語 連載第八六四回 「『いやのめ』その二」
一八二一(文政四年)溝口水騒動を記録した古文書『乍恐以書付奉申上候』は溝口丸屋七右衛門宅が打毀しを受け、緊迫した情報が久地村に早々と聞こえる。
分量樋のある久地村に鑑み「乱入可致哉も難斗夫々村内江立戻り締致候者有之」となり、対策として「分量樋より弐拾町程上の方字いやの免と申処同場有之」に「村役人共を多人数引連れ集り候」とある。
『新編武蔵風土記稿』記載の「いやのめ」所在地は「分量樋より弐拾町」という表現につき、四日の「高津古文書研究会」で「久地分量樋から二拾町程上とはどの辺りか」との、報告があった。
久地から「弐拾町」とはメートル法に換算すると二・一六キロとなること、それを府中県道に当てはめると、久地分量樋から二・一六キロは「藤子・F・不二雄ミュージアム」バス停手前辺り迄となる旨の報告があった。
『風土記稿』の記載が正確かどうか極めて疑問だ。が、もしかすると「多摩の横山」と言われた旧向ヶ丘遊園辺りから津田山に掛けての尾根伝いは「水源の源」というべき、水の豊富な、多摩川に流れ込む源流を抱える丘陵地帯であった、と確信出来た。
『風土記稿』にある様に「此辺村内北に寄りたる所の小名を、川の辺村と云、是川の辺なる故唱へならはせるにや」と書かれている。 この様に「いやのめ」の位置は『新編武蔵風土記稿』の記載に拘らず、私は現在の高津区久地、現在の「緑ヶ丘霊園」の外れ―『久地診療所』の辺りを想定していることに変わりはない。
『風土記稿』に、久地村の小字として「いやのめ」が出ていて「西南の角を云う」と出てくる。
さらに久地村は、「村内多くは平地にて南方には山あり。土性は真土に砂交り、荒砂砂利へな土の錯はれる所あり、水田は少なく陸田は多し。民戸九十一軒所々に散在せり」。
「この村古きことを伝えず、正保の頃(著者註―正保元年は一六四四)は御料地にて伊奈半左衛門の支配所なり、元録小十年織田越前守此地を検せり」等々の記載があって面白い。
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