高津物語 連載第八六七回 「田山花袋と久地大入樋」
明治時代、久地村の様子の内、久地大入樋の状態が如何なっていたか。
この疑問を知るために明治三十年から四十年代に掛けて、武蔵小金井からこの地まで歩いて来て「今日の散歩はいささか疲れた」等と書いて、途方もない健脚を誇っている自然主義作家の文章に、耳を傾ける必要が有ろう。
自然主義文学の作家とは、柳田國男に溝口行きを勧奨され、国木田独歩と共に溝口を何回も訪れ、文章を残している田山花袋のことである。
「溝口の方へ流れて行く用水は、久地の梅林のある少し手前で、大堰を作って溝口の方へ流れているが、その堰の辺りも、丘陵が迫っていて感じが好い。夏行った時には、そこで村の子らが銅のような肌をして河童の様に潜ったり飛び込んだりしていた」と書いている。
が、この文章の侭では現状は大きく様変わりしているから、若干の説明を加えておきたい。初めの「溝口の方へ流れて行く用水」とは「ニヶ領用水」のことだ。
だが、今と違って久地駅方面から府中県道沿いに流れて来ていた。
「久地梅林の少し手前で、大堰を作って溝口の方へ流れている」とは「イヤノメ村落」の起点となるニヶ領用水をいい、大型マンション(スニカー・タウン)に遭遇する左側に田中休愚によって「分量樋」が造営されていた地点を云う。
現在、二ヶ領用水を訪れる人の為に、「分量樋」の目印の標識が立って居る。
「しかし此処の好いのは、夏の盛りよりも、初夏の方がすぐれていると思う。臨川君と吉江君と一緒に武蔵野を歩いて、調布から登戸、榎戸へ出て、此処に日が暮れてからやって来た時の事が思い出される。多摩川の土手には月見草等が一杯に咲いていた。登戸の先の榎戸の大滝の落ちる所から、私達は用水の縁をたどって二子の方へと来た。」
「その堰の辺りも、丘陵が迫って感じが良い」とは、現在もテラス・ハウス等が出来てはいるが、まだまだ自然が残っていて、「感じが良い」と言わねばならぬと思うのだが?如何か?
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