高津物語 連載第八七五回 「『灰吹屋』のこと」
灰吹屋創業は貞亨年間(一六八三)伊勢国から四谷御門前四谷伝馬丁一丁目で萬屋弥宗兵衛が屋号「万屋」を商った所から始まる。
初代鈴木仁兵衛が新宿区四谷駅前の「灰吹屋薬局」より暖簾分けで大山街道溝口「灰吹屋薬種店」を創業した時が明和二年(一七六五)という。灰吹屋は鈴鹿山脈東麓と伊勢湾岸を占める三重県三重郡上村田光の産、薬局の創業は早い創業歴を持つ老舗で四谷の外千葉県八日市場市にも灰吹屋薬局があるという。
屋号「灰吹屋」の由来は
金・銀を含む鉛鉱から金・銀を回収する作業に携わる人を云った。
骨灰(現在は石灰)と粘土で作った灰吹皿に鉛鉱をのせ、灰吹炉(分銀炉)の中で空気を吹き付けながら溶融すると、鉛は酸化され笛吹皿に吸収、後に金・銀を残す精錬法が灰吹法だ。
初代は鈴木惣兵衛。二代目初代仁兵衛が四谷灰吹屋に奉公、生薬の製法を覚え、開け始めた大山街道溝口で灰吹屋薬種店を開いたのが創業の由来である。
商売熱心な三代目鈴木仁兵衛は、俳号老人亭宝水、柳居門系田川鳳朗門下の俳諧師に学んだ。始め六軒町、現在は七面山から宗隆寺本堂参道左側に移された石碑
「世を旅に代かく小田の ゆ起もと里 芭蕉翁」
伊代石を使い、「文政十二年巳丑四月十二日、玉川老人亭宝水 建之」とある。
同碑裏面には「祖王は生涯旅にわたらせ玉ひ、扨こそ代かく小田の尊吟も風流自然の金言なるべし。其余風をしとふ輩みな旅を守としてゆき道筋を学ぶ。予は東海道の一筋も知らずして古希に至りぬれば風雅に覚束なきに最上なるべし。かくて此度、翁の碑を建立して旅せぬ罪を懺悔し皐月のかがみに古の俤をうつし、尊吟に脇を添る事こそ恐るらくも冥加に余れる幸せ也ける、宝水」と。
さらに「年頃日頃の心眼成就して翁塚を往来の傍らに造営碑前に額ずき奉りて
月影もしぐれよ
草のしげるほど
宝水
文政十三年庚寅年十月十六日」と新築蕉翁墳建碑式当日の控帳にあるという。
(神奈川文庫『川崎古今俳句集』飯田九一編)(鈴木雅世「新春雑感」は次号)
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