高津物語 連載第八八〇回 「高津町誕生と惣之助」
惣之助が高津に来た一九三四年(昭和九年)前後は川崎市との合併、及び軍事大国化の道を、突っ走って行く時代風潮が蔓延した時代であった。
「高津町は、旧幕以来川崎町に次いで多摩川右岸の宿場町として特に活発な商業活動とその経済圏は周辺町村に伸びていた。大正一四年七月に二子橋が完成し、次いで昭和二年に玉川電気鉄道溝口線が高津村に乗り入れた。同年三月には南武鉄道が武蔵溝ノ口駅等を設け、高津村を通過した」と『川崎市史』は大要以下のように続けている。
高津町と接する中原地区は昭和十年五月十一日待望の丸子橋が完成したのを機に法政大学予科、日本医科大学予科等の教育機関が進出、主として学園都市として発展が嘱目された事。
この中原地区の発展に刺激され高津町有力者は、川崎市との合併機運が高まる。川崎市人口増加に伴い、火葬場建築を企画し乍ら、建築地問題で反対運動が起り、火葬場獲得の為、高津地区と合併したかった。
結局昭和十二年四月に高津町は川崎市に合併する。
この前後の東京の空気は、昭和八年夏の東京では第一回関東地方防空大演習が行われ、年末には皇太子明仁親王殿下御誕生の祝賀提灯行列も行われている。
「東京音頭」が大流行している中、川崎市制十周年記念の市歌が制定された。
東京・横浜・川崎の三市で防空演習も行われ、川崎市長は非常時についてのラジオ演説を行い、大戦前夜の慌ただしい雰囲気が充満していた。
陸軍省は『国防本義とその強化の本義』というパンフレットを配布し、本土決戦を呼び掛けた。
東北地方の大凶作で借金累積、娘の身売り、欠食児童行き倒れ、自殺と惨状が極限に達し、追い打ちをかける様に九月二十一日、室戸台風が関西地方に襲来、惨状が極まった。
地元では多摩川の砂利採掘禁止で人夫千五百人が、二子橋下で反対運動を開く等、不穏な空気があった。
そんな中で、惣之助が高津を訪れ、新興の意気に燃える高津の人々を勇気づけた。どんなに喜ばれたであろう、想像に余りある。
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GO!GO!!フロンターレ3月22日 |
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