高津物語 連載第九一一回 「久本の制水弁」
前号の私の舌足らずの記事に、数字の間違いを、梶ヶ谷在住の高品嵩氏から、心温まる御訂正の指摘を戴き有り難かった。
今日からおよそ三十三年前の「制水弁」=写真=が、町の往来―しかも、人通りが多い路上に現存してあることが驚きなら、殆どの人がその存在は知っていても、何に使われたものか知らないという事実にも、私は又、驚かされている。
平瀬川が、第二次大戦中に、平賀栄治の努力によって「津田山トンネル」を抜け、多摩川に流れたこと。
そのことが、毎年毎年、水が出て浸水事故が頻発した溝口駅前周辺の人々にはどんなにか、有り難いことであったか…。
同様にイトーヨーカドー前周辺の道路も、一面の田園であった関係で、長雨が続くと水が溜まり、とても歩ける状態ではなかったこと。
暑い盛り、旧知の坂戸の旧家の人々に二、三軒お邪魔して「制水弁」のことをお聞きしても、皆さん異口同音に「二ヶ領用水への排水機」と応えられた。
最後に坂戸の長老―萩島さんにお聞きして謎が解けたと思った。
つまり、平瀬川の水は、大衆マーケットを貫け、総合高津中央病院裏を流れて来た平瀬川未流と合流して、中央通を直進、一本はそのまま直進して、溝ノ口中央通り郵便局横を貫けて、坂戸に直進し、二ヶ領用水に流れ込む。
もう一本は、旧長崎屋と旧マルエツ・ビルの間を貫けてポレポレ通りに出て、田園都市線溝の口駅のあった「蓮池」から流れて来た水と一緒になって、横浜銀行・みずほ銀行・ムサシボウル・マルエツ・中央通りを越えてイトーヨーカドー・労働基準監督署前を抜けて、「制水弁」迄やって来たのだと思われる。昭和五七年当時は、私が四十歳になったばかりだった頃だ。
中原地区の稲作に、大活躍した農業用水の遺産として、保存したいと思う。
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