高津物語 連載第九一二回 「二〇一五年秋」
「天井に咲く花」という優雅な異名を持つ曼陀羅華の花が、庭の一角で今を盛りと咲き誇っている。今朝数えたら二十五、六のラッパ状の花が雨に濡れていた。別名を「見る者の心を喜ばせる」とは『花の図鑑』の説明だが、この花に送られた最高の賛辞に違いない。
暑かった今夏、私は病後初めての外歩きをした。郷土の歴史を語る者が、歩かなくては、と自らに課した教訓を思い出したのだ。
私は、(武蔵)新城まで歩いて行った。
相模国の中原―旧神奈川県中郡大野村の「中原」を語源に持つ「中原街道」。
多くの人が川崎市中原が語源だ、と錯覚している街道を小杉迄バスで行った。
上小田中で降り、浄土宗泉沢寺に行ってみた。岡本かの子の兄大貫雪之助が通学した小学校のあった寺だ。
鐘楼の傍らに、大山街道「二子の亀屋」の全景写真が写る高さ七十センチの地蔵立像が安置されていた。
台座正面には「一切衆生有縁無縁現当二世為安末」。右に回ると台座右側面に「享保元年丙甲十二月二十八日」とあった。享保元年は西暦一七一六年で、今から二九九年前に建立された。
『新編武蔵風土記稿』小杉に「田多ク、畑少シ、家数百二十三軒」とある。
江戸時代、小杉周辺は水田稲作農業中心で、溝口から流れて来た二ヶ領用水や平瀬川の水を灌漑し、大正時代中期頃まで、広大な稲毛田圃が一面に続いていた。
昭和十四年頃、親戚の千年木嶌家を訪問した、三、四才の強烈な思い出。
南武線新城駅を降り立った時、眼の前に広がる田圃に真っ赤な蓮花草が植えられて、遥かな山裾まで一面に続いていた光景が飛び込んでき来たのだ。
私は夢の国に来た錯覚に捉われ、極楽浄土を歩く気分だった事を覚えている。
見渡す限り真っ赤な田圃の畔道を歩いて行った記憶は忘れがたい思い出だ。
田畑には麦、大豆類も作付され、川原等の荒地を開墾して、換金作物として木綿を作り、更にはそれを桑畑に変えて、養蚕等も行われていた事も知った。
秋は古い記憶に引戻す。
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