高津物語 連載第九一三回 「戦中の出来事」
長兄が逝って早や一年―戦中の出来事を思い出す。
昭和十九年八月高津小学校三年生、集団疎開に出発する同級生を見送って、母の里―綱島に疎開した。
母と二人だけの外出が嬉しく乗換えの東横線自由が丘駅から見下す「ケンネル」の犬達が記憶にある。
翌日横浜市立新田国民学校の始業式に出た。後に『港北区史』は「校舎には兵士が駐屯した為、地元の児童もお宮等を借りて分散授業を行った」と書く。
始業式の帰り道、鶴見川を北上するグラマン戦闘機の機銃掃射を受け、反射的に土手下の水路に飛び込み、無事だったが、何が起こったか、一瞬我を忘れた。
真黒な機体と後ろを振り返って、奇妙に笑っている操縦士の姿を覚えている。
その晩、お向かいの軍需工場安立電気を目標とする焼夷弾の流弾が、裏山に落下、物凄い音がして一瞬、死ぬか?と思った。
祖母が私を抱き締め「南無阿弥陀仏」と念仏を繰り返していた。翌朝、裏山に行くと、今迄あった農家が大きな穴に変わり、散乱した住人の肉片を見た。
横浜中心部は、昭和二十年四月十五日、B29二百機が来襲して、約七万五千発の焼夷弾を投下した。
死者九七二人、焼失家屋五万二千戸が被害を受けた当時、父は農業改良普及員として、神奈川県庁勤務であった。
中学一年の長兄は、父の安否を確認する為、父の親友と自転車で、千年の七曲りを横浜市街迄出掛け、その途中、綱島の私達の疎開先にも寄ってくれた。兄と話しもしなかったが、私は本当に嬉しく、喜びを抑え切れないで、皆に言いふらした様だ。その晩、私は親戚の悪ガキからリンチを受けた。兄が来て喜んだのが、気に食わなかったのだ。
涙に暮れて、裏庭に出てみると、物置から出された箪笥の一段目が開いていた。
覗くと生まれたばかりの鼠の赤子が、固まってうごめいていた。鼠年で、鼠の大嫌いな私も、この時は、鼠の赤子を見て、自分も、頑張らねばと…励まされた。あれから七十年…殆んどの人が亡くなった。
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