高津物語 連載第九二〇回 「武蔵野の雑木林」
本当のところを言えば、多摩川が決壊する事など、今の私には考えられない。 だから、明治四十三年八月七日の「多摩川大洪水」を、昨日の事のように考えている一人である。
多摩川が今後も、平穏無事に流れてくれることは、云うまでもなく望ましい事で、誰も異論のある筈がない、と思はれる。
國木田独歩の『武蔵野』や、大岡昇平の『武蔵野婦人』などに登場する武蔵野の雑木林は、東京の自然の原風景となっていて、その雑木林が、多摩川洪水の最大の防御策となっていた。
東京目黒の『自然教育園』や、お隣の『東京都庭園美術館』等は、私は大好きで昔から良く行く、大好きな場所である。
それは、誰もが安心して寛げる場所なのだ。安心して寛げる場所の理由を考えると、緑の多さが第一の理由として挙げられる。戦後、住宅難で設置された見覚えのある都営住宅が影を潜め、綺麗に整理されて、緑の多い、綺麗な公園に様変わりしていた。
歴史を紐解くと、江戸の「緑化事業」は、徳川八代将軍の吉宗によって、創始されたようである。武蔵野を切り拓いて、新田開発を奨励し、玉川上水の分水を使って、次々に開田させた。
当時の武蔵野は、風吹き荒ぶ、一面の荒野であった様で、淋しい場所だった。
空気が乾燥し、強風による塵に悩され、新田は凶作に見舞はれ、農村は壊滅状態であった。この新田救済のため、大岡越前守は、府中押立村の名主川崎兵右衛門を、新田世話役とした。 武蔵野の風土改造に根本的な、解決はないとみえて、食料を与え深井戸堀をさせる傍ら、植樹を行わせた。松、杉、檜、小楢や雑木の苗や苗木代を与え、畑囲いや屋敷林を作らせ、また農地に向かない斜面や日陰地等も活用させて、積極的に植樹をさせた。苗は大きく育ち、強風を遮り、家屋敷に多く使われた檜は、武蔵野のシンボルとなった。雑木林は炭焼きの材料になり、農民に現金収入をもたらした。晩年、奈良吉野山から桜の苗木を取り寄せ、玉川用水の両岸に植え、後年江戸の名所に変る。
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