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高津区版 公開:2015年11月27日 エリアトップへ

高津物語 連載第九二一回 「高津の桃つくり」

公開:2015年11月27日

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 昭和初年、川崎市の温室栽培業者を一丸として「川崎市温室組合組織」が出来た。高津区でも、あちらこちらに、たくさんのガラス張りの温室が見えた。

 高津十字路の私の家にも温室があった。私の幼年時代の話であるから、昭和十年代の事だと思はれる。

 温室の中は、それは温かくて、寒さ知らずだったから、何時も温室に行って遊んでいたものだ。父は、「繋ぎ」と言う外国の作業着を着て、ハイカラだった。

 たくさんのメロンが実っていて、大きな実が糸で支えられていたのを、覚えている。大きなスイカも獲れ裏の井戸で、つめたく冷やして食べた。赤や黄色のスイカが余りに美味しくて、「頬っぺたが落ちる」と、真剣に心配していた。一番幸せな時代だった、と思う。

 昭和初期の川崎市は、園芸農業が盛んになった。

 昭和十六年頃になると、徴兵制で成人男性の数が極端に減ると、国策で農事試験場を設置し、農業技術の振興を図り、食料の確保を意図するようになった。

 戦時体制の中、溝口・久地から多摩川辺り迄、梨畑や桃の畑が続いていた。

 多摩川が運んできた良質の土砂を利用して、凡そ百年前から多摩川梨と、多摩川桃が地元の特産品となり多摩川沿いの一帯は、東京近郊の梨と桃の名産地となっていた。本当に長閑だったと思う。溝口から稲田提迄、梨と桃の産地だった。

 北原白秋の歌に

「鮎は過ぎても、また

来ておくれ

梨の実りの、梨の実りの良い秋に」

がある様に、多摩川の梨や桃、それに多摩川の鮎を加えて多摩川の名産だった。 手間が掛かる割には米等と比べようもなく収入が多いので、農家は、皆梨畑に変り、米は買って食べる様になった。

 昭和十九年、時の首相東條英機が溝口に来て「梨よりも、米を作れ」と激を飛ばした為、高津町役場も聞き捨てならず、米作を奨励、梨を切り倒して、流行のように米を作る農家が多くなった。工場が進出して、畑が潰されるケースが多くなり、戦時色が強くなる。
 

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