高津物語 連載第九二二回 「高津の洪水」
明治三九年と明治四十三年の二回にわたる歴史的大洪水は、この町に大きな被害をもたらした。
『二カ領用水知絵図』(川崎市建設局土木建設部河川課発行)絵図⒊二カ領用水四〇〇年年譜には、この時代「工業化・都市化」が進行し「明治後期多摩川河口一帯」は、民間埋立事業が進み、工業地帯化、工業化に伴う人口増で都市化が進行し「灌漑面積最大」になり、更に一九〇八年(明治四一年)には二八五一haの灌漑面積のピークを迎える。
にも拘らず「水田は減少」する。この理由は「工業化に伴う激しい都市化で一九一九年(大正八年)から十年間に、約四百町歩の水田が減少したからであった。
これは反別賦課金に基づく組合財政の圧迫につながった」事によっている。
「用水施設損壊」は、施設老朽化の上に、一九一〇年(明治四三)の大洪水により久地大入樋、分量樋等が、共に崩壊した事による。
にも拘わらず、一九一四年(大正三年)にも、再び多摩川大洪水があった。
明治末年から大正初期に掛け、毎年のように多摩川で洪水が発生していた。
この大洪水に関する対応と言おうか、研究が見られなかったのは、如何様に解釈したらよいのだろう。
例えば『新編武蔵風土記稿』の新城村は、稲毛郡、小田中、井田郡に対して「新庄」で、新しく開墾された土地を意味している。
「水田多くして畑少し、山もなければ全て平地なり。土地は真土、民家は今八十二軒散居せり、平らかにして土性は真土なり」とある。
ここに明治四十年と明治四十三年の二回、久地の津田山が真っ二つに割れ、真ん中の土砂が溝口、坂戸、北見方、新城、上小田中、下小田中方面に迄押し出される。明治四十年の洪水は高津区久末に迄、濁流が押し寄せて来て、蓮花寺参道石段の三段目迄、濁流が押し寄せた旨、森郁夫さんから伺うことが出来た。土砂が流出、良質の土壌が覆い、新しく流入した土砂を利用した良質の稲城米が、夏季は水稲、秋から春にかけ大麦、小麦を栽培する二毛作を可能にして、橘樹郡最大の穀倉地帯に変質させた。
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