高津物語 連載第九二八回 「多摩川の氾濫」
小地測量第一班、碎部第三測手、陸軍省御用掛、野村間他一名による「神奈川県武蔵国橘樹郡溝口村」―明治前期測量の二万分一フランス式地図が手元にある。
明治十四年二月に測量された最初の地図で、これによると青陵岩精が描いた一つの「七面山」(通称、津田山)ではなくて、現在の様に二つに割れ、下作延部分と上作延部分に大きく区分されている。これは「津田山」の土が、多摩川の洪水で押し流され、津田山が二つに切裂かれ、現在の様な形になったものとしか考えられないからである。
多摩川の濁流は、津田山南側の現「府中街道」を襲い、二ヶ領用水は氾濫して南武線久地駅と鹿島田・菅線の道路を襲い、そのまま濁流となって大山街道「さかえ橋」から片町の高津区役所周辺全域を襲った。
平瀬川は二ヶ領用水に押されて流路を右に変え、久本山の山裾を流れて行った。
現在も川崎市教育委員会によって発掘調査の行われた『久地伊屋之免遺跡発掘調査書』は「現在の平瀬川は、近世の稲毛・川崎二カ領用水と連結しており、自然流路としての流末は、当然多摩川には注いでいない。
しかし、それ以前は多摩川に注いでいたと考えるのが極めて自然で、結論的には、諏訪地区と二子地区の真ん中を縫う様にして多摩川に注いでいたと思われる。この重要な視点が欠如していた」として諏訪地区の古多摩川により形成された自然堤防、同じく自然堤防が形成されていた二子地域、平瀬川流末は必然的にその中間を縫うようにして多摩川に注いでいたと復元するのが妥当だろうとして、田園都市線高津駅と二子新地駅後中間に、現地地表一mより幅五〇〇m・深さ二mにわたって砂によって堆積された浅い谷層が確認され、これが平瀬川のかっての流路の痕跡である可能性は極めて高いとする。
「諏訪天神塚古墳」「諏訪浅間塚古墳」「北見方古墳」「二子塚古墳」等々が現在の自然堤防―周辺地域より比較的高い空間の上に築造されているのはこの為だと指摘している。
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