高津物語 連載第九三四回 「津田山の板碑(いたび)」
表題の板碑とは「石造りの卒塔婆の事で、緑泥片岩の様な平板石を用い、頂を三角形に作ったものが多い。上部に仏の種子、または仏像を彫り、下部に偈(げ)・紀年・氏名等を刻む。鎌倉・室町時代、死者追善、生前の逆修供養のために設立。特に関東に多く、秩父青石で作った物を、青石塔婆という」と『広辞苑』に説明がある。
高津区下作延の津田山「伊屋之免」から、大量の板碑が発見された話は、昭和三十六年(一九六一)七月二十七日故新井清氏に「下作延から板碑が出たので、調べて欲しい」という依頼があったという。
新井さんが翌日、早速現地を訪れて、依頼者宅で板碑を見、更に出土地を検分されたという。
板碑の発見された現場は、南武線津田山駅から久地駅方面へ向かう鹿島田菅線道路拡張工事の為、約七、八メートル程切り崩している場所で、地表から数十センチの位置より出土したものと判ったという。
発見者の言によれば、三十年程前にも、多量の板碑が出土したが、ある好事家がその大部分を持ち去ったとの事であった。
今度発見された場所は、前回大量の板碑が発見された場所と、ほぼ同じ地点であるという事であった。
また今度の出土を知らせてくれた人が、十数畝に前同地点付近から、関東ローム層の中に埋められた甕を発見したというが、褐色で薄く、もろく、取り出す時に、粉々になってしまい保存は出来なかったという。
「板碑」完形品の出土地は多摩川南岸に連なる丘陵が下作延で、独立丘になる処で、その台地上に旧ビクター・オート津田山工場への登り口があり、工場のある台地より南方へ突出せる小台地があり、通称「伊屋之免」と言われる場所といわれ、その先端を切り崩した所から「板碑」が発見され新井さんは広永六年と読んでいるが応永六年(一三九九)の誤記と思われる。板碑は七十六センチ、上部二十一センチ、下部二十三センチ、頭部の下に二条の切り込みがあったといわれる。
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