高津物語 連載第九三五回 「武陽玉川八景之図」
『武陽玉川八景之図』の「武陽」とは文字通り「武蔵国の太陽」と解釈し、南武蔵溝口から遠く北武蔵の山々を遠望した地図で、現物は中原図書館と世田谷区立郷土資料館に保存されている。
寛政三年(一七九一)江戸馬喰町二丁目森屋治兵衛が版元として印刷(この年津波が川崎海岸に押し寄せ大被害が起きている)。
販売元は、溝口村名主の丸屋、鈴木七右衛門である。
作者は青陵岩精という。
「青陵」姓と溝口との関係を考えるには、先ず溝口村の成立から考えないと問題は解けない。
『新編武蔵風土記稿』横浜・川崎編巻之四「稲毛領溝ノ口村」を見ると、「小田原北条氏分国ノ頃、当所ニテ二十二貫四百万文ノ地ヲ海保新左衛門カ知行セシコト役帖ニ載ス」と海保新左衛門が溝口村を知行していたことがわかる。
一方「改宗五百年を迎えた溝口宗隆寺」(昭和三十六年七月溝口宗隆寺発行)の『宗隆寺略年表』に「明応四年(一四九五)北条草雲伊豆韮山より起り、小田原城を攻略し、次で関東各地に勢力を伸長した階方新左衛門宗隆が溝口地頭として就任した」とある。
「地頭」とは、源頼朝が朝廷の許可を得て全国の荘園に置いた官職。荘園の管理、租税の徴収、治安の維持などに当たった。室町前期頃から勢力を増して領主化したもので、「泣く子と地頭には勝てぬ」とは「土地の頭領」の権威を比喩的に表現したものである。いずれにせよ、溝口地頭に新しく就任した「階方新左衛門宗隆」は、大変な権限を持っていたに間違いない。
さらに『略年表』は「改宗の前後」で、「身延山第十一世行学院日朝上人が、西谷の狭隘を厭うて新たな地を探し、現今の位置に講堂を移し、地図を傾けてその華生の御事業に精進していられた頃、足利氏の勢力が弱体し、郡雄は先を争うて一台に名を挙げん」と、全国で戦乱が繰り返された。この中に当時伊豆韮山を居城にしていた伊勢新九郎長氏は、早くから小田原城を目指し、入城して名を北条早雲と改め、明応四年二月大森藤頼を下した。階方宗隆もその幕下である。
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