高津物語 連載第九三九回 「青陵岩精」
青陵は号、名は岩精は宝暦元年(一七五一)〜文化十四年(一八一七)の時代に、商品貨幣経済に立つ商人勢力の台頭を背景に商業を肯定、営利行為を認めた人だった。
「武陽玉川八景之図」を描いた経世家青陵岩精は、実学的な思想家で「現実的経験を重んずる方法的態度」を取る所産で「奢 を抑え倹約を旨とし、貯蓄を勧める」信条を旨とした。
青陵は三十才で伊勢参り、寛政元年(一七八九)三十五才で始めて京都に行く迄の青少年時代、ずっと江戸生活を続けていた。が、これ以降、江戸と京都を中心に北は丹波、南は紀州、西は讃岐・備中、東は江戸から越後と、結んだ圏内―関東・中部・近畿地方一円、中国地方は岡山県、四国は香川県を範囲とする各地を旅行し、見聞を広めていて、「東海道ヲ往来ニテハ十ペン通レリ。木曽ヲ二ヘン、北陸道ヲ一ペン通レリ。滞リテ遊ベル処ハ、三、四十ケ処」。「山ヘ登リテ見タルコト大小数百ナリ」と、東海道、中山道、北陸道沿線を頻繁に歩き回ったらしい。
この様に寛政元年、三十五才から始まった全国行脚五年目、寛政三年(一七九一)四十才の青陵岩精は、大山街道溝口宿名主・丸屋七右衛門方に宿泊して、七面山周辺を散策し「武陽玉川八景之図」を描き、江戸馬喰町二丁目、森屋治兵衛が版元として出版された。
上部に関東近郊の山々、中間に「玉川八景―都築ケ丘夜雨・喜多見之晴嵐・登戸之夕照・向丘之夕月・溝口之暮雪・瀬田之落雁・二子之帰帆・宿河原之晩鐘」を配し、下部には大山街道「万年橋」と久地「分量樋」を配した上、大山街道を描き、大山街道を行き来する人々に販売された。
販売元は溝口村名主丸屋七右衛門で、街道を往き来する旅人に売られ、多くの人々に紹介もされた。
青陵の「武陽玉川八景之図」は、更に片町を右折して「綱下げ松・聖松」道を描き、「七面山」を裏側から力強く描いて立体感を出す。
現在の様に真ん中を南武線が通ったり、県道もない、恐らく青陵岩精の登った七つの登り口が描かれていて「七面山」の面目が高い。
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