高津物語 連載第九四一回 「『青陵岩精』の遊歩」
江戸大山街道青山に蟄居していた海保青陵は、現在の職業でいえば「コンサルタント」で、種々の企業を訪ね歩いて、経営法を説教して回り、地方の資本家―酒屋をずっと訪ね歩き、説教してまとめたのが、周代三礼の一である『周礼』を原点とした『稽古談』で、晩年の文化十年(一八一三)に上梓した、という。
その他幕府外科医の桂川甫周に出入りし、桂川家に来る西洋学者から得た知識を、西洋事情を知っているとして、振り回したらしい(中国文学者吉川幸次郎と中村幸彦氏との対談―『日本の思想』【18】「近世後期の学者像」)。
全国行脚出発に際し、真っ先に選んだ最初の目的地は、大山街道の道続きで、親戚知人の多い「溝口宿」。
大山街道二子玉川を渡った先にある溝口宿こそ、親戚が宗隆寺と溝口神社の住職を勤め、街道と宿場の有力者となって居る溝口こそ、旅の最初に訪れるべき目的地であった。
宿舎は知人の溝口宿名主宗隆寺檀家総代を勤め、溝口宿で旅籠「丸屋」を営む鈴木七右衛門宅に決めた。
海保青陵(岩精)は三十五歳まで、江戸青山に蟄居するばかりで、滅多に江戸を出た事の無い人であった。
ところが、理由は定かでは無いが寛政五年(一七八九)岩精が三十五歳の折、急に思い付いて、住み慣れた江戸青山を後に、急遽全く予想もしなかった未知の京都への旅に出立する。
江戸青山から道続きの、現在の国道二四六の旧道。大山街道を辿って多摩川を渡り、知人の多い溝口宿に逗留したと考えられる。
大山街道溝口宿では、溝口宿名主丸屋鈴木七右衛門の案内で、あちらこちら街道周辺を隈なく歩いた。
そればかりか、大山街道溝口宿の中心に位置する丸屋は、二ヶ領用水大石橋際にあり、日蓮宗宗隆寺に先祖代々墓所を持つ檀家で、宗隆寺門前町で、宗隆寺の住職が、親戚の階方(海保)新左衛門であったから、心安く宿泊できたものであった。この様にして、海保青陵は大山街道溝口宿に逗留して、隈なく歩き「武陽玉川八景之図」を書き上げる。
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