高津物語 連載第九五三回 「戦時下の町内会(一)」
大正十四年に二子橋が開通して、二子玉川駅までだった玉川電車が溝ノ口まで伸びた。また、余分な電気を回してくれたために、町中が明るくなり、昭和三年溝口は、高津村から高津町になった。
明治二十三年発足の高津村は溝口・二子・久地・久本・下作延・坂戸・北見方・諏訪八ヶ村に、下野毛・瀬田・宇奈根三村を編入した十一村で高津町になった。人口は約七千人超だった。
昭和初年当時は、園芸農家の温室が十四、五軒の長閑(のどか)な純農村地帯だった。多摩川の氾濫域の園芸に適した荒木田土質で、バラやカーネーション、スイセン等を栽培、東京市場に出荷する温室があった。他に桃や梨を栽培する農家がたくさんあった。
わが家も父が園芸高校卒で「鈴木フローリスト」を営んでいた。
庭には牡丹、薔薇の花卉(かき)類、柿、梅、棗(なつめ)の樹木が茂り、温室ではメロン、苺等の果実が重い実を下げた光景を撮った写真が残っている。
東京方面は人家が多くなり、風も吹かず、空気が汚れてきたので、空気の綺麗な溝口周辺に土地を求めてきて、都市近郊農村の一人として盛んに営業を始めた人も居たから、あちこちに綺麗な花々が咲き乱れた温室が見える園芸全盛時代だった。カーネーション、ダリア、菊等々の季節の花々が溝口の園芸農家で栽培された良い時代だった。
桃源郷、理想郷――久地周辺の桃が満開で、ピンクに染まる美しさは、口では表現できないほどだった。
戦争が始まった昭和十六年頃から、梅や梨と同じように、花卉園芸は贅沢だという風潮が大勢を占め、ユートピアの美しい高津が、この瞬間から消えた。
久地の二ヶ領用水工事と平瀬川の津田山トンネル工事、久地大圦樋側道・府中県道工事が同時進行で始まり、府中県道高津交差点にあった「田中屋」は、立ち退きを迫られ、茶畑と廊下を「府中県道」に提供、立ち退いた。
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