高津物語 連載第九七四回 「高津高女」
昭和初年各小学校では、小学校令に基づき、教科目が修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体育が課せられ、女児には裁縫が課せられた。高等科では、これらの他、町村の状況により農業・商業・手工のうち、一科目を必修科目として扱い、且つ選択科目で英語を教えた。
ここまでは極々一般的な教育課程である。これに加え、高津町は一九二六(大正十五)年頃から、社会教育制度の組織化が行われ、青年訓練所の項目が顕著となり、男女青年団の育成策を推し進め、青年団活動を国家管理のもとに置こうとする狙いがあった様だ。
即ち、青年団活動は「修養の機関」とし、地域団体としての青年団から時事的要素を抜き取り、天皇制に基づく国家道徳に従わせようとするもので、大正七年(一九一八)には、内務、文部両大臣名による「青年団活動に関する第二次訓令」が発せられ、「世界戦乱」時代の青年の役割と青年育成の方向付けが示された。
これこそが「軍と社会教育」との結び付けを示す、社会教育の軍事化で、歴史的意味は深い。
大正十五年七月から青年訓練所が各地に設置され、高津町でも津田山山頂に、軍事教練を目的とした「青年訓練所」が出来、十六才から二十才迄の青年に対する精神教育と団体訓練を目的とし、修身と公民科教練が必修とされ、中で教練は在郷軍人が当たった。
「その頃、女子教育に対する関心は極めて薄く、学力も男子に比べて問題にならない程だった。その為にも地元に女学校を造ることを町制を施く高津の第一の仕事にすべきだと、町長に再三進言した。実の所、町で造らねば個人ででも経営しようと、自分の土地五百坪ばかりの準備をしていた」と、学務委員、町会議員の中村倉右衛門氏の発言である(「近代川崎の女達」)。 生徒は向丘村・稲田村・宮前村・生田村・東京府荏原村・世田谷太子堂から来た。授業料は本科生二円五十銭、選科生一円五十銭だった。
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