高津物語 連載第九八五回 「六ヵ村堀の流れ」
「高津物語」担当が変わり、頁が前後してしまい、掲載に異動があった事をお詫びしたい。
表題の「二ヶ領用水」六ヵ村堀は、現在は暗渠になっていて、今は見ることが出来ないが、町の中の川という感じが一番していた。
私の小学生の頃、埋め立てが行なわれ、道路が広くなった。
川を埋め立てて、幅員を広くしてモータリゼーションの時代に対応しようと考えたのだろう。
それまでは、綺麗な小川が流れていて、人々は食器を洗ったり、洗濯物を洗ったり、魚も沢山泳いでいてのんびりしていた。
僕ら子どもはズボンを腿まで捲り上げて、魚取りに興じたものである。
二ヶ領用水は小学校低学年には水深が深すぎたし、流れが急すぎて、随分遠くまで流されたものだ。
長尾『鈴木藤助日記』は、全文解読された小林ひろ子さんによると、長尾の鈴木藤助が流されたのは二ヶ領用水で、平瀬川ではないという話であった。
同書巻頭に掲載された長尾は、府中県道と多摩の横山を挟んで、向こう側に平瀬川が流れる地形となっていて、久本岡氏、片町太田良海、山口佐仲、台ノ龍澤、坂下幸庵がそれぞれ頻繁に鈴木藤助家を往診に訪れていて、「見舞い」という用語が頻繁に使われている。
「岡家第四世道栄は、医業ヲモッテ、家名ヲ相続ス。当主ハ身体肥大ニシテ体重二十有余貫、常ニ角力ヲ好メリ。
産科術ニ妙ヲ得テ拾数里四方ニ迎エラレ広ク久本ノ岡道栄ト知ラレタルハ当代ヲ以テ元祖トシテ佳ナリ。
往診ハ駕籠又ハ馬等ニシテ寸時モ安座シ居ルノ閑暇ナカリシト」と『岡家歴代記』にある。
安政六年(一八五九)六月二十四日留五郎は他二名と共に横浜に行き、井戸掘仕候とあり、夜に入り、「大雨折々ふる」とある。
六月二五日 留五郎不帰玉川出水仕候よし承り及候
玉川大水何年も聞及不申候
六月二六日 留五郎不帰
昨日出水大谷儀兵衛藤五郎
両人水死仕候、藤五郎不帰
六月二七日 藤五郎死体、諏訪河原へ有候(六ヵ村堀を流れ「二子塚」から、諏訪方面に流れたらしい)。それにしても、凄い話である。
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