高津物語 連載第九九三回「年をとるということ」
まさか自分が、八十才六カ月まで生きてこようとは私は、予想も、想像もした事が無かったから、自分で自分に呆れ果てている。
「良くぞ、長生きしてきたものである」と…。昔のことを夢想することが大好きである。
昔、小学校三年生の僕は高血圧で倒れた祖母のため、毎朝四時か、五時に早起きして末長の「徳盛舎ミルク・プラント」まで搾り立ての牛乳を買いに自転車で出た。
母に起こされ、眠い目を擦りながら、子ども用自転車を出し、いつもの仲間が待つ、まだ明けやらぬ大山街道十字路に行くと、みな大人用自転車で、暗い中で待っている。
全員が集合、大山街道片町まで向かい、庚申塔を左に折れ、暗い「神奈川道」を直進する。
頭の上を竹が垂れてきたり、道の脇を流れる小川が冷たそうに流れていたり、綺麗な花が咲いていたり、飽きることもなかった。
当時は洗足学園の前身の「日本光学川崎工場」も出来ていなくて、至る所、田園ばかりだったから、一生懸命ペダルをこいで、お兄ちゃん達に、追いつくことばかりを考えて、自転車をこいだ。
末長の手前、やや小高い丘のような神奈川道で、光り輝く、大きなご来光を仰ぎ、その神々しさに思わず合掌した。
「徳盛舎」牧場には、大きなホルスタインがたくさんいて、みな口を左右に動かしていた。
毎朝、休憩の意味もあって、牛達と戯れて帰宅するのが楽しかった。
時々は、おじさん達に搾り立ての牛乳を、ご馳走になったりした。
その後、徳盛舎牧場前の山(山の下の道を直進すると梶が谷駅に出られるが、それは戦後の話である)が、切り崩され、今も高圧線の鉄塔が、ぎりぎり一杯に削られ、辛うじて立っている。
日本光学案内でいつも触れる場所だ。
日本光学川崎工場敷地用の、田園埋立て用トロッコレールが何本も引かれて、急ピッチで突貫工事が行われた場所でもある。
昔の何気ない場所に、昔の懐かしい思い出が、いっぱい詰まった場所があり、思い出は尽きない。
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