宮前区・高津区特別編 高津物語 「矢倉沢往還・溝口宿」
江戸時代中期から明治末期ごろまで、大山の関所への矢倉沢往還は赤坂御門を起点に、三軒茶屋から瀬田を経て、多摩川で二子の渡しを渡る。東京都心から二〇キロ、昔で五里である。
二子・溝口両宿を経て、馬絹・有馬・荏田・長津田・伊勢原・松田から矢倉沢関所に至り、そこから駿河方面に達する往還、現在の国道二四六号線こそ、昔の「大山街道」で、相模国東西を結ぶ幹線道路としても発達してきた。
大山登山最盛期は、宝暦年間(一七五一―六三)で二十万人が阿夫利神社に参詣した、と言われる。
大山街道の各所から、茶・真綿・椎茸・乾魚・たばこなど、駿河・伊豆・相模の特産品が、この大山街道を通って溝口に運ばれ、得意先ごとに商品を小口に分け、出荷調整をしながら、江戸入りしたと思われる重要な幹線道路であった。
「二十数台の馬車は彼の広大な屋敷内に羅列する幾十の蔵々から荷を載せて毎日江戸へ向けて出発した。
江戸への三里のその往還には、いつの日も、その積み荷の影を絶たなかった。
彼の身近には江戸近郊、遠くは北国西国の果てからまで、何百人かの男女の雇人が密集した」とは、高津区二子生まれの作家、岡本かの子女史の、『老主の一時期』の一節で瀬戸内晴美氏『かの子撩乱』に引用されていた、と記憶する。
天保九年(一八三八)の『商人書き上げ』によると溝口宿には旅人宿が六軒、居酒屋が四軒、煮売・髪結が各二軒、棒屋・鮎商・湯屋が各一軒との記載がある。
このように、大山街道溝口宿が、江戸の消費を支える物流センターの性格を強めるのは、もう一つ、二子河岸から川船で商品を運び出す最大の利点があった。
つまり、大山街道二子・溝口宿は、水陸両用の物資輸送の拠点として発達した。
と同時に百万都市江戸の地回り経済圏の拠点として、周辺村々の地場産業を集約して、商品の集約する「在郷町」として、特別の性格を持った町として形成され多くの医者が集中、独特の街並みが形成されていく。
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