高津物語 連載第九九八回「中世の大山街道」
中世期から近世にかけて大山街道溝口宿は、大きな変貌を遂げつつあった。
古代において多摩川の底にあった「大山街道」が、中世期に数回にわたる多摩川の流路変更により、それまで、津田山の山裾を洗っていた多摩川が、流れを大幅に引き、現在の流路に大きく変わった。
これにより川底から突如として露出した地面が、大山阿夫利神社への大山街道に姿を変え、人々は水の引いた、現在の「大山街道」沿いに、徐々に集まって来て現在のような街並みに近い「大山街道」が出現することになった。
とはいって、溝口から下の中原から南は、水深九メートルの海だったから、今水の引いた直後の大山街道は、極めて不衛生で、病気の発生しやすい状態であったと思われる。
結果、多くの病人が出て医者にかかる住民が多くなった。
「大山街道」沿いに多くの病人を治す、開業医が集まるようになったのも、もっともであった。
そのうちの一人、下作延の太田家は、下作延の「根もじり坂」の中程に住まいして開業していたが、多摩川の水が後退して、現在の流路になったのを、見届け大山街道片町に医院兼住宅を建て、医院の開業諸準備をしていた。
「太田医院」を寛政十年(一七九八)真っ先に開院した。太田家は大山街道青山の松平家の後手にあり、御殿医家の象徴である「藥医門」を備えて、「御典医様」と地元の人に呼ばれる、蘭方医家で、人々の尊敬の的であった。
日本に天然痘(疱瘡)が流行したのは、聖武天皇の天武七年(六七九)のことであったとは初期の「高津物語」の「影向寺」に書いたが、大宰府内の諸国から各地に流行し、多くの人が亡くなったことが、『続日本記』に書かれている。
以後、三十年の周期で流行を繰り返し、この病気にかかると、顔が「あばた面」になる恐ろしい病気で夏目漱石も「自分の顔の痘瘡」を気にしていたことが、日記に書かれている。
大山街道の幕開けは、疱瘡だった。
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