高津物語 連載第一〇〇二回「大山街道の医療機関」
古く「矢倉沢街道」は大山阿夫利神社の参拝道と呼ばれ、江戸赤坂御門から、相模内陸部を横断して、富士山麓御殿場を経て、静岡県吉原で東海道と合流する。
「大山道」は大山阿夫利神社への信仰の道、古くは「青山街道」「相模街道」とも呼ばれた。足柄、御殿場地方では「冨士(登山)道」とも呼ばれ、富士山信仰の登山道があった。
古文書に「矢倉沢往還」が散見してくるのは、文化三年(一八〇六)の『日光社(日光東照宮)參寄人馬役免除願』が初見と云われる(「南足柄市史資料編」)。これが手元の『オオカミの護符』を書かれた著者、小倉実恵子さんのお住まい、宮前区土橋に伝えられた古文書に紹介されている。
土橋村の「御岳講」は、寛保二年(一七四二)には、もう既に行われていて、古老から「雪の中を草鞋履きで御嶽山に詣でたこともあった」ことが、書かれている。「暴れん坊将軍」の徳川吉宗の時代である。
小倉さんは「御岳講」は「心の拠り所として、切実な願いをもって行われてきたものに違いない。以来、幾度の変遷を経ながら二七〇年程の長きにわたり、御岳講は続けられて来ている」と書いている。「種蒔きの直前に行く御岳講の道中に、経験の深い大人たちが天候を占い、どんな種をどのように蒔けばいいか、日照りの時や冷害の時に、どんな対処をしたらよいか」等を教えてくれたという。
南足柄よりも六十年も早いのは、土橋がそれだけ、開拓が進んでいたからだといえると思われる。
この時代、「雨乞い」は相模の大山、冷害は上榛名山、作付けは武州御岳山、と決まっていて、それぞれに信仰する講があった。
講に参加する理由は農民にとって「今年は長雨か、それとも日照りか」の問題が直接、農作物の豊作か、凶作かに結びついていて気象に左右される事が、多かった。そのため、その年の天候を考慮して、作付けをするために、神に縋らざるを得なかったのだが、本当の所は、家族全員の健康祈願が根底にあった筈だ。
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