高津物語 連載第一〇〇三回「高津区医療の土壌」
高津区の医療の根本は、高津物語が繰り返し指摘してきた町の誕生の歴史に、深く関係している。
今更言うまでもないが、日本列島は十億年前は海の底だった。
その後、火山活動によって、陸地が頭を持ち上げて海から顔を出したり、引っ込めたりを繰り返した。
新作の山を切り崩した昭和三十三年、ナウマン象の歯の化石が発見されたのも氷河期の厳しい寒さで死に絶えたと思われる。
逆に気候が温かくなると溝口から荻窪辺りまで、東京湾の波打ち際で、縄文海進で、子母口貝塚ができたりした。しかし高津区から先の中原・幸・川崎の各区は、深さ九メートルの海の底だったと言われる。
『新編武蔵風土記稿』は「村内総て、ただ西の方のみ丘林あり。水田多くして陸田少し。土地は真土に砂交れり。土地の闢けし年歴は伝えざるも、さまで古きことにはあらざるべし。」とある。文中の「闢く」は、「開ける」と読み、「水が引け、土地が開ける」意である。
江戸初期、寛永二年(一六二五)には、二子・溝口・久本・下作延・末長・梶ヶ谷の村々が街道沿いにあったが、街道というより「野道」に近い狭い道で、旅人宿もない悪路だった。
やがて徳川幕府は、人口の急増によって江戸が世界に冠たる百万都市となり、生活物資や交通路を緊急に整備する必要が生じ、矢倉沢往還も、宿場整備を設ける事となった。
これに伴い、寛文七年(一六六七)十月、幕府は農民の連帯責任性を強化した。
即ち、寛文九年(一六六九)二子・溝口両村が、正式に矢倉沢往還の宿場に指定され、溝口・二子両村で毎日人足二人、馬一匹を用意することとなり、伝馬役は上の二十日を溝口村、下の十日を二子村が勤めた。
後に、延宝九年(一六八一)五月には、久地、諏訪河原、久本、末長の四か村が助郷役を命ぜられ、さらに、享保初年には上作延、下作延、北見方の三か村がこれに加えられている。
どの村も、苦しいノルマに耐える様子が見える。
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