郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第10話 その3 高品千鶴子さん
◆ここでの子育ては
子どもは、2女1男です。昭和47年に梶ヶ谷小学校が開校しました。1番上の子の入学式は、体育館がなかったので校庭で行いました。児童増加につれ校舎も広くしたのですが、児童が減ると余った教室を地域の資料や農機具を集めた「ふるさと館」にしたりしました。 でもまた、最近増えていると聞いています。1番下の子は、1年生のときに建設省の官舎がなくなったり、3年生のときに西梶ヶ谷小学校ができたりし、人数に変動があり毎年クラス替えを行っていました。 子どもが小さい頃は、駅の近くは自然が豊かで、田んぼにはザリガニ、草むらではバッタがピョンピョン跳ねてましたよ。公園のノビルや土筆で佃煮も作りました。 切通しの道を通り生田緑地までよくハイキングに行きました。
バス便も発達して、引越してから2年目には向ヶ丘遊園までバスが運行し、子どもだけで私の実家に行けるようになりました。当時、市民プラザ通りは、国道246号線の入口手前まででしたが、川崎信用金庫が協力して、向ヶ丘遊園まで道路を整備したと聞いています。 そうそう、宮崎中学校の生徒たちは、土地区画整理がされる前は、家の前の階段がありませんでしたので、山の回りをぐるりと歩いて通学していたようですね。 階段ができた後は、階段がとても急なので、うちの家の前で一休みしていた子達がいましたっけ(笑)。
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4月19日