「3分40秒で生まれ変わって帰って来たよ」―。北見方在住の黒川金次さん(98)は21歳で出征し、二度の魚雷攻撃をかいくぐって生き延びた。それから75年余り、戦争の記憶を語れる人が減りつつある中、地元では黒川さんの体験記が冊子として残されている。
黒川さんは北見方で生まれ育ち、農家を営む。北見方町会の副会長を務めていた15年ほど前、当時会長だった吉田豊さん(88)と懇意になった。理事会のあいさつなどで度々語っていた戦時中の経験を「詳しく聞きたい」と、吉田さんが願い出たことがきっかけとなり、06年2月に聞き取りが始まった。「聞きっぱなしでは申し訳ない」と、吉田さんは冊子にすることを提案。「お手伝いするから、皆さんに知ってもらえるよう1冊作ったらどうか、と言ってくれてね」(黒川さん)。黒川さんが語る言葉を吉田さんが記述し、出来上がった原稿を見て修正していった。回を重ねるごとに記憶がよみがえり座談は13回に渡ったといい、冊子が完成したのは1年後の07年1月だった。「吉田さんがいなかったらできなかった」と当時を振り返る。筆録を担った吉田さんはこの冊子を『いのちの記憶〜私の戦争体験』と名付けた。
生死の境 くぐり抜け
同書によると黒川さんは1943年12月、21歳で入隊。東シナ海のバシー海峡に出た際、敵の潜水艦の攻撃に遭い、乗っていた輸送船「ブラジル丸」に魚雷が2発命中した。3分40秒で撃沈し、3100人の乗船者のうち救助者はわずか407人。「気がつくとハッチのふたにつかまって浮いていた」という黒川さんは、駆逐艦によって救助された。
二度目の魚雷攻撃は4カ月後。マニラを出発しセレベス海に出た時のことだった。すぐには沈まないからあわてないようにとの号令後「何も持たずに飛び降りろ」と指示が出た。黒川さんは船に積んであった孟宗竹につかまり、二日二晩浮いていたという。仲間と励まし合って耐えていたが、夜になり眠ってしまった人は二度と浮いてこず、寝てはいけないと必死だった。父のリヤカーの後押し、母の実家の祭りに連れて行ってもらったこと、下宿先の近所に住む娘さんのことなど、漂流中はとめどなくいろいろなことを思い出していたという。
若い青年の記憶を形に
冊子にはほかにも、厳しかった軍律や衛兵勤務の経験、上陸したセレベス島での日常生活などが綴られている。「21、2歳の若い青年が経験した、気取りのない本当の話を正直に語ってくれた」と吉田さん。「九死に一生というが二生。金次さんの努力なのか運なのか、戦争のさなかでも1人も殺していない。こういう兵隊さんもいた、という記録になれば」
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